ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「殯の森」の原点

映画作家 河瀬直美


 2007年に製作した「殯(もがり)の森」は認知症の男性と彼を介護するケアスタッフの心の交流を描いた作品だ。この構想の原点はわたしの家族が認知症を患ったことにある。

 日本は世界的な長寿国で知られているが、かたや認知症患者の数は増えるいっぽうで、その人々を取り巻く環境は社会問題に発展している。そうして新しい制度の導入や施設の増設などさまざまな対策が考えられ施行されるなか、わたしは社会問題としての認知症をとりあげたのではなく、その張本人の家族としての思いをつづり始めた。

 認知症という言葉は今では違和感なく理解されるようになったが、当時はボケ老人や痴呆症という言い方のほうが一般的だった。言葉の意味を考えれば、彼らがいかに差別的に扱われていたかが計り知れる。実際、わたし自身も奈良という地方都市に暮らしていて、認知症を患っている養母への接し方や介護の方法論は情報としてほとんどと言っていいほどなかった。

 たまたま夫が仕事の関係で認知症ケアの第一人者といわれる方を紹介してくれたおかげで、いままで暗雲立ち込める気分だったものが霧が晴れるようにクリアになった経験がある。たった2時間、わたしの声に耳を傾けてもらえたことが救いとなったのだ。認知症を患っている本人の混乱へのケアはもちろん大切だが、それと同じくらいに大切なものがある。正直まだまだ現場において行き届いていない家族の混乱へのケアだ。壊れそうになる心を精いっぱい保ちながら、身内が介護することがあたりまえのように思われている社会の中では、介護する側が病んでしまう共倒れ現象が起きるのも無理はないと思う。

 心のやさしい人ほど、悲観し落ちてゆくのだ。ほんのひとこと、介護する側の人間へ「あなたは本当によくやっていますね」という言葉を語りかけ話を聞くことで、何かが劇的に変わることがある。それはわたし自身の体験として、先の見えないトンネルの中で、一筋の光に出会えた瞬間であった。


かわせ なおみ氏 1969年奈良市生まれ。97年「萌の朱雀」がカンヌ国際映画祭新人監督賞、2007年「殯の森」がグランプリを受賞。2010年より開催の「なら国際映画祭」エグゼクティブディレクター。