ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

ホスピス医のがん体験、その1

ヴォーリズ記念病院ホスピス長 細井 順


 年も改まって新たな歩みがスタートした。腎がんを手術した私は、6回目の新年を迎え、今年のがんとの付き合いが始まった。

 がん体験をこれから5回に分けて、ホスピス医の目で振り返ってみたい。私のがんとの付き合い方が皆さまの参考になれば幸いである。

 ホスピスでがんの患者さんと付き合い、最期の時を共に過ごすことを通して、人間は死ぬということを現実のものとして受け止めるようになった。死の姿を間近にすると、必ずしもがんのために死を迎えるわけではなくて、人間には死が備えられていると考えるようになった。人生行路の終着点が死であって、生きていることの一部として死が位置づけられている。納得した人生でも、中途半端に過ごした人生でも等しく終わりが来る。自分もいつかは必ず死ぬ、その時期は選べないと見定めた。

 何故、こんなに苦しい一日を過ごさなければならないのかを思い、生きる意味があるのかと考えたとき、今日のいのちは自分の努力で実現したわけではなく、それは与えられた一日、与えられたいのちだと思うようになった。私自身が生きるに価値ある存在だから生きているわけでもない。自分はこの一日生かされている、ただそれだけのことなのだ。

 「がんさえなければ」と考えてしまう。一方で、「死を意識した時から本当の人生が始まる」とも言われる。がんがあってもなくても死は訪れる。がんを恨んでも仕方ない。がんも自分の一部で、がんとともに死ねばいい。

 ホスピスで出会う死の姿は、決して悲しくつらいだけものではない。死が避けられないものなら、がんになってホスピスで最期の日々を過ごすこと、これが一番楽な生き方であり死に方ではなかろうか。ホスピスでは人生のお手本のように思える何人もの患者さんと出会った。生き方についていろいろと教わった。私も自分らしく死んでいけるだろうとイメージできた。

 その時、血尿があった。

ほそい じゅん氏 1951年生まれ。大阪医科大卒業。自治医科大外科講師を歴任後、96年淀川キリスト教病院ホスピス医長。2004年自らも腎がんを経験した。06年から現職。患者と哀(かな)しみを共にするケアを実践している。