ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

美しき日本人

映画作家 河瀬直美


 奈良県の十津川という村を知っているだろうか? 名前は聞いたことがあるが行ったことがないという人も多いと思う。奈良市内から4時間ほど、国道168号線を十津川沿いに延々と南下する。深い山間の村には昔から交通の手段がない。江戸のころには年貢を取り立てる術(すべ)もなくこの村は実質の共和国状態となっていたのだそうだ。村人同士の取り決めが法律のようであったという。助け合わなければ生きていけない場所。結束力と絆(きずな)が生まれてゆく土地。

 15年ほど前に映画を撮影したのは十津川よりも奈良市内寄りの西吉野という村だった。その土地の暮らしは当時のわたしにとってカルチャーショックというのか、それまでの常識を覆すことの連続だった。その体験で学んだことは数知れず。生きてゆくということはこういうことなのかということが、漠然とだが分かった気がしていた。自然とともに在るということ。人間だけが偉いのではないということ。現代社会が見失いがちな命の本質のようなものがそこには存在していた。その西吉野からまだ1時間半以上奥に入る。いまだに携帯電話の電波が通じていないこの地域には深い山間の斜面を開拓して生きてきた、とてもおおらかな人柄のおじさんおばさんが生活している。都会への憧(あこが)れはないのかと聞くと、「いや〜都会では生活できん」と皆が口をそろえて言う。日々の喜びは何かと尋ねると、「働けること」と返って来る。

 年間3万人の自殺者を抱える日本の社会。サラリーマン、オフィスレディーが一番いい働き口であると皆が思っていた時代のしわ寄せが今、ある。人間の心の中に他人を中傷したり、お金だけが大切だと豪語したりすることがまかり通る世間の中で、疲れたなと思ったら十津川に行くといい。そこには澄んだ空気とおいしい食べ物、あるがままの自然の数々とともに生きる美しき日本人がいる。彼らと言葉を交わせば、今ある命をありがたく思う自分を取り戻すことができるのだから。


かわせ なおみ氏 1969年奈良市生まれ。97年「萌の朱雀」がカンヌ国際映画祭新人監督賞、2007年「殯の森」がグランプリを受賞。2010年より開催の「なら国際映画祭」エグゼクティブディレクター。