ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「また会おうね」

ヴォーリズ記念病院 ホスピス長 細井 順


 先月、私とは11歳違いの叔母が死んだ。私が生まれた時には同じ家に住んでいたので、小さいころからよく可愛(かわい)がってもらった。私も「お姉ちゃん」と呼んで慕っていた。叔母が通っていた高校と私の幼稚園が隣同士で、叔母が幼稚園まで送ってくれた。私が大学生のとき、初めての海外体験はタイのバンコクにいる叔母一家を訪ねたものだった。叔母の子供と我が家の子供とは年も近かったので、なにかとよい交わりを続けてきた。思い出せばいくつものことが頭に浮かんでくる。

 叔母は誰とでも明るい笑顔で接することができた。多くの友人を持ち、その人のために骨惜しみをせずに動いた。周囲の人たちに多くのものを与えてきた人だった。健康にも人一倍気を配り、私などに比べるとはるかに真面目(まじめ)に物事に取り組んでいたように思う。

 叔母は奇しくも私と同じ腎がんだった。私より後に検診で見つかった。手術を受けたが骨や肺に転移した。分子標的薬を使い、友人に勧められた民間療法を試した。効果がどれくらいだったかはわからないが、入院先の大学病院で最期を迎えた。

 最後に叔母と会ったのは亡くなる10日前だった。息苦しさはあったが、澄んだ爽(さわ)やかな表情をしていた。きれいだった。これが最後だろうという思いはあったが、「また会おうね」と約束して別れた。

 灰になった叔母を見て、これで終わりだとは思えなかった。先ほどまであった叔母の姿はもうない。灰になった姿を見つめていると、空しく、悲しい気持ちを通り越して、叔母の優しさや笑顔が私の胸にしっかりと刻み込まれたような気がしてきた。叔母に可愛がられて歩んできた私の人生を振り返る時、叔母の死で終わりを告げるものは何もないことを思う。叔母―甥(おい)の間柄の中で、叔母が私に注いでくれたいのちは私の中でこれからも変わることなく生き続けるだろう。

 「また会おうね」という最後の約束は今も生きている。


ほそい じゅん氏 1951年生まれ。大阪医科大卒業。自治医科大外科講師を歴任後、96年淀川キリスト教病院ホスピス医長。2004年自らも腎がんを経験した。06年から現職。患者と哀(かな)しみを共にするケアを実践している。