ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

手放してつかめるもの


ヴォーリズ記念病院
ホスピス長 細井 順


 市民大学講座で中高年世代にホスピスで教わったことを話した。その中で、つかむことと手放すことを紹介した。つかむというのは、若いころ、失敗を恐れずにどん欲に挑戦し多くを自分のものとしてきたときのことをさす。それを通して人生の基礎作りをしてきたように思う。だが、それは昔のことで、今や老いが迫ってきた。やがて人生の終わりもやって来よう。その時にはすべてを手放さなければならないと話した。老いというのは、上手に手放すことを学ぶときである。

 ホスピスで出会ったお坊さんが教えてくれた。つかもうとして、手を握りしめると何もつかめないが、手を大きく開く、つまり手放すときには大切なものが手のひらに落ちてくると言うのである。

 死を迎えることは、ひとつひとつ手放していく過程と言えるだろう。病気になって通院すれば、それだけで他のことに使っていた時間を手放すことになる。手術のために入院が必要になれば、さらに多くの時間を手放さなければならない。仕事の時間を割かざるを得ない。生きがいと考え、何十年も続けてきた社会奉仕とか趣味もできなくなる。さらに病気が重くなると、仕事そのものも手放さなければならなくなる。寝たきりになれば食事や排泄(はいせつ)などの自立した生活も手放し、他者に委ねなくてはならない。そして、死に臨んだとき、それまでの人生を共に喜び、共に泣いて過ごしてきた家族も手放さなければならない。すべてのものを手放し、ひとりぼっちになっていくのだ。これが死の過程である。

 手放すものが増えていくたびに、失ってはならないものが意識される。生きていくために大切なことが見えてくる。あれもこれもと必要なわけではない。誰を支えに生きてきたかに考えが及ぶ。一人では生きられないことに思い至る。そして、優しさに包まれていることに気づく。

 手放すことができる年齢になったとき、人生の深遠をつかむことができるようだ。


ほそい じゅん氏 1951年生まれ。大阪医科大卒業。自治医科大外科講師を歴任後、96年淀川キリスト教病院ホスピス医長。2004年自らも腎がんを経験した。06年から現職。患者と哀(かな)しみを共にするケアを実践している。