ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

老いるということ


真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 ある日、鏡を見てぞっときました。生え際の白髪が増えているし、まぶたもくぼんで昔のようなハリを感じない。確実に「老いて」いる証拠です。

 私たちは自分の姿の変化を見たとき幻滅を感じるのでしょうか。少しでも若く見せたいと努力してみせ、アンチエイジングの言葉を見ればさまざまな雑誌、本を参考にする。誰もが願うことでもあるでしょう。

 私は講演で話されたある先生の言葉が忘れられません。先生は90歳の年齢にもかかわらず私たちを熱心に導いてくださいました。

  「皆さん!年を重ねるっておもしろいことだらけで、新しい発見が毎日あります。ありがたいことですね」と笑顔でおっしゃるのです。私たちには負け惜しみにしか聞こえませんでした。しかし「みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」(大無量寿経)というお言葉をいただき考えがひっくり返りました。

 虚無(こむ)というのは、あるのかないのかわからない物のことを言います。それに対して、無極(むごく)の体というのは限りなく大きいということです。

 さらに先生はおっしゃいました。「若いころは何でもできていたのに、今はすべてが面倒になった。物忘れがひどくなった。病気がちになった。新聞も老眼鏡がなければ見えなくなった。若い人の力も借りなくてはならなくなった。つまり若いころにできたことが、思うとおりにできなくなった。私がいかにちっぽけな人間かが知らされるのです。そのことが虚無の身なんですね」と。そしてそういう私を大きな世界で支えていただいていたことを知る。それが無極の体を受けるということなんだと。

 若いことが、すべて自分の努力で何でもできることだと信じていました。若いものには負けないとも思っていました。しかしそれは自分よがりの頑固な心だったのです。

 さて「老いる」とは「謙虚になれる時の流れ」ではないでしょうか。謙虚の「虚」。それが虚無の身をそのままいただくことにつながっているような気がしてなりません。


かわむら みょうけい氏 アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。