ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「死にたい」という人の本心


真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 「あなたは、あと1年の命です」突然こう言われたらどう思うでしょうか。

 間髪いれずに「死にたくない」という気持ちが湧き起こるでしょう。これは誰もがもっている自然な生存欲です。このことを仏教では有愛(うあい)といいます。愛という言葉がつくように、人間はだれだって温かい慈愛の中で生きさせていただきたいという願望があるのです。

 しかし多くの苦悩、挫折、人間関係の裏切りを味わった人は逆に愛されなかったという絶望で「もうこれ以上生きたくない」と歎いてしまうのです。これを非有愛(ひうあい)といいます。自死を考えたことのある人はまさしくこの非有愛の中で生きてこられたのではないでしょうか。

 その気持ちを口に出す人と、表には出せない人もいます。人間の心は「面」で覆い隠されていますから心の奥底までは見えません。「言葉」でもって相手の気持ちを判断します。しかしこの言葉だけに左右されることは危険なのです。

 私の知人は会う度に「私は明日死ぬかもしれない。この世の中が嫌になった」と口にします。ある日、知人宅へお邪魔するとテーブルには栄養サプリメントが無数にあり、旅行が当たる用紙もあります。死にたい人が今さらサプリを飲んだり、旅行の応募をするでしょうか(苦笑)。

 死にたいと口にする自分もあります。しかし、一方で「死にたくない、生きたい」という有愛の気持ちが根底になるのです。

 ある映画のワンシーンが忘れられません。「差別のない国に行きたい!」と青年が叫びます。すると会社の上司は「差別のない場所はないんだ。つらいがこの町で生きていくしかない。逃げるのではない」と。

 毎日が楽しく私を受け入れてくれたらどれほどうれしいでしょう。しかし思い通りになれないこの娑婆(しゃば)で私たちは苦悩から逃げることなく、命が枯れるまで生きさせていただく。そこから生きる素晴らしさを実感できるのです。

 「死にたい」そう思ったとき、目に見えない命の灯を大切にしたいですね。


かわむら みょうけい氏 アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。