ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

長崎被爆の友の死と子孫(こまご)

まちの学び舎ハルハウス代表
丹羽 國子



 日本人として広島と長崎の原爆体験(1945年)をもち、しかも地震大国でありながら、「原子力の平和利用」と称して多くの原子力発電所や六ケ所村核再処理工場を、目先の利益のために容認し追従している政策担当者や雇用主の皆さまにお尋ねいたします。目に見えないものを畏れ、広島・長崎の原爆被災者やその子孫(こまご)の健康状態を謙虚に学び続けられた末のご容認でしょうか。

 3代にわたり、発病におびえて暮らす一家を紹介しよう。東京の看護学校寄宿舎で寝食を共に学んだ友は、2歳で長崎市の爆心地から1・5キロの自宅の戸外に母親と居て被爆。急きょ母親は友を親戚に預け、爆心地に近い造船所で働く夫を必死に探した結果、躰(からだ)が真っ黒に炭化した多くの男女不明の死体の中から、腕に記念の腕時計が残っていて判明でき、夫を家に連れ帰った―と聞いて育った。

 友が看護師を目指したのは、健康に生きたい一心である。寮生活の友は、白血球の増減と感染に一喜一憂し、低気圧が近づくと起きる頭痛に悩まされながら、いつも笑顔を絶やさない対応であった。

 老舗を継ぐ恋人と結婚話の際、恋人の親御さんは主治医に面会し、結婚して子どもに影響は?と問うて結婚に大反対。しかし、2人は苦難を乗り越えて結婚。3人の子を育てたが「内部被ばく」のせいか脳腫瘍で入退院を繰り返す。3人の子は低気圧が近づくと頭痛になる「頭痛持ち」と聞いている。家業を継いだ長男は「父と重症の母に一目結婚式を見せたい」と願い、私を含め3人が友に付き添い盛大に挙行した。その年の暮れに友は58歳で逝去。そして長男も30歳を越えて脳腫瘍で手術。定期的に受診を続けながら家業に励み、毎週、妻の実家に一家で潮湯治に行き、自分と息子の健康増進に努め、発病しないよう気遣う日々である。

 広島・長崎被爆から66年!専門家や政策担当者は、今なお、被爆者の子孫が健康障害におびえ苦しんでいる事実に心して、虚心坦懐(たんかい)に謙虚な態度で行動していただくことを切願する。


にわ・くにこ氏 
看護師、ケアマネジャーを経て2009年まで佛教大教授(社会福祉方法論)名古屋市出身。72歳。