ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

尊敬しあえる関係で


真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 先日、ある子どもさんから「喧嘩(けんか)はなぜするの?」と質問を受けどきっとしました。喧嘩という字は両方に「口」がつくようにお互いが自己主張をして止まない状態をいいますね。喧嘩をしてしまう心の奥底は何なのでしょう。

 私が学生のころ「善人の家には喧嘩が絶えない」と恩師よりお教えいただきました。はじめは「なぜ善人が喧嘩? これは悪人の間違いではないのか」と不思議でなりませんでした。しかし、恩師は「確かに善人というのは良いことをしている人というイメージがあり、悪人というのは人に迷惑をかけているというイメージがある。しかし、親鸞聖人の悪人は違う。『私も迷惑かけました。あなたを傷つけたね。ごめんなさい』と自らの悪を認められる人のことを悪人というのだ。一方、善人というのは、『私こそは正しい』と主張する人のことなのだ。そういう人が多いから喧嘩が絶えないのだ」と。深く考えさせられたものでした。

 私たちはそうした善人意識があるから、喧嘩も差別の境界線がなくならないのではないでしょうか。

 水平社創立発起者のひとり、西光万吉さんの呼びかけ趣意書『よき日の為(ため)に』の言葉が印象的です。

 「人間は元来勦(いた)はる可(べ)きものじゃなく尊敬す可きもんだ・・・哀れっぽい事を云(い)って人間を安っぽくしちゃいけねぇ」

 西光さんは「勦はる」という漢字をつかっています。これは、「殺す」「滅ぼす」という意味を持った字です。西光さんは「いたわり」からは人間が本当に向き合えることはできないと歎かれたのです。そこには偽善者としての同情が入っているのかもしれません。大切なのは次の「尊敬」できるのかということなのですね。

 目の前の人を尊敬できるのかできないのか。そこから深い人間関係は気付けるのでしょう。混沌としたこの時代、まずは尊敬する所からはじめていきませんか。


かわむら みょうけい氏 アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。