ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

魂のケア、いのちのケア


ヴォーリズ記念病院
ホスピス長 細井 順


 「人生の店じまいを覚えよう」をテーマに語ってきたが、今回でペンを置くことになった。3年間大きな励ましをいただき、ありがとうございました。

 多くの人たちの死に向かう日々をみてきたが、死んでいくのは本当に難しい。生きることより難しいようだ。そんな中、ホスピスのゆったりと流れた時間の中に、人生を締めくくって旅立つ方からは多くのことを教わった。

 終わり、別れがよいものと感じられるためには、余韻が大切かもしれない。心にしみる音楽に出会ったときには余韻にひたることがあるが、人生の最後の時にも同じように余韻に包まれるときがある。死の場面に出会うが、その人と過ごす時間は終わっても、こころの中ではその人がずっと生き続けていると感じられることがある。その余韻をいのちと言うのだろう。余韻が生まれるためには、その人の心に触れること、あるいはもっと言うなら魂に触れるような出会いがなければならない。

 日常生活の中では気付かないが、自分の限界を味わうような場面では魂といわれるものが頭をもたげる。魂を意識するとき、人は苦しみ、絶望感に襲われる。そこに魂のケアが生まれる場所がある。魂のケアにくすりはない。必要なことは、弱さを共に分かち合おうとする謙虚な気持ちだと思う。そのようなケアの中から人の繋(つな)がり、絆が生まれる。言い換えるならこれもいのちである。生そのものに根ざし、個人のレベルを超えて我々に通底しているものがいのちである。それを感じることのできる出会いが生み出す余韻、生きとし生けるものすべてがもっているいのちの本質は誰にも解明できないが、我々を結ぶものが必ずある。

 「私たち」という言葉で言い表される出会いのあとに、余韻となっていのちが受け継がれていく。人生の余韻を次の世代に伝えるところがホスピスである。

 ホスピスは魂を生き返らせ、遺(のこ)る人に生きる力を与える。

 さて、小欄の余韻はいかがであろうか。


ほそい じゅん氏 1951年生まれ。大阪医科大卒業。自治医科大外科講師を歴任後、96年淀川キリスト教病院ホスピス医長。2004年自らも腎がんを経験した。06年から現職。患者と哀(かな)しみを共にするケアを実践している。