ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

私の戦争体験

まちの学び舎ハルハウス代表
丹羽 國子



 第2次世界大戦開始年の2月に生まれ、国民学校1年生の8月15日に戦争が終わった。人間の死が日常の残酷で悲惨な戦争と東南海・三河大地震の2度の体験は決して忘れない。

 1944(昭和19)年秋ごろから、陸軍造兵廠(しょう)兵器製造所があった名古屋は、空襲警報が多くなり、いつも枕元に防空頭巾・リュック・水筒・運動靴を置いて寝る日々。

 夜中に警戒警報が鳴ると、父母が幼い弟妹を背負うので、長女の私(5歳)はいつも急(せ)かされて1人で装着し、庭の防空壕(ごう)へ入る頻度が多くなっていた。

 第一の恐怖体験は、翌年1月3日の午後。警戒警報で防空壕に入り、空襲警報でB29の焼夷(しょうい)弾・爆弾の炸裂(さくれつ)する大音響に肩を寄せ合い、眼をつぶり、両手で耳をふさいだ。爆弾で近くの小学校と家々が焼かれ、日中でも黒煙と火の海で真っ暗。空襲警報解除になり自宅を心配した近所のおばさんが「まだ危ないよ」の父の声を背に防空壕を走り出た途端、撃たれて死んだ。資料によれば名古屋市街地空襲は約1時間にわたり、957機のB29による269トンの破片爆弾などで、犠牲者70名の記録がある。

 第二の恐怖体験は、その日真夜中の敵機来襲。眠い目で「防空壕?」と尋ねる私に父母は身支度を急がせ「付いてくるのよ」。戸外は真昼のように閃光(せんこう)が走り、熱風塵(じん)で息が苦しい。父と母の間に入って歩いてマンホールへ降りた。汚水でぬるぬる滑りそうな地下道に人が降りてつながる。

 私は立って歩けるが、大人は四つんばい。じーっと明け方の空襲警報解除まで息を詰めていた。資料から0時47分が中川区、2時20分、5時30分が豊明から岡崎方面に10余トンの破片爆弾と焼夷弾・爆弾が落とされている。

 数日後、愛知県丹羽郡の祖父母の隠居所に避難して、8月15日を迎えた。21世紀になっても戦争や紛争の絶えない地球人一人ひとりは、一番ヶ瀬康子の「平和なくして福祉なし」のスピリッツを守り続けて行こう。

にわ・くにこ氏 
看護師、ケアマネジャーを経て2009年まで佛教大教授(社会福祉方法論)名古屋市出身。72歳。