ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

遠くて近きもの

立命館大教授 津止正敏



 高校古文の教科書を手にする機会があった。パラパラとページをめくっていると懐かしい一文が目に留まった。清少納言が綴(つづ)った『枕草子』の一節だ。「近うて遠きもの」は大晦日(みそか)の日と元日、たった一日だが一年の暦がめくられる。「遠くて近きもの」は極楽。遥(はる)か彼方(かなた)の極楽も信心次第ではごく身近にある、あるいはまだまだ先のことだと思っていたこともこの先すぐにも直面するのかもしれないということか。あれこれ考えてみた。『枕草子』の別段には「ただ過ぎに過ぎるもの」として「人の齢(よわい)。春、夏、秋、冬」ともある。月日の経つのはホントに早い。ニキビ面の頃はほとんど実感することもなかった時間の妙が、胸にストンと落ちる年になった。

 「遠くて近きもの」。先月のことになるのだが、故郷で相次いで同窓会が開かれた。一つは中学の、もう一つは高校の会だ。届いた案内文には還暦記念だと記されていた。そう、私ももうそんな年頃なのだ。嬉(うれ)しいやら恥ずかしいやら、自分のことはさておき同窓の変わり様を思うと恐ろしいやら。でも中学同窓会の日、杯を重ねたとたんに45年の空白が一瞬にして繋がった。彼らとのエピソードが昨日のことのように一挙に蘇(よみがえ)り、心が弾んだ。遠く離れてはいても同じ時間を並走してきた者との変わらぬ近しい関係に安堵(あんど)した。

 「近うて遠きもの」の実感もあった。今年の誕生日を境にしてみんな60歳、私も11月にはそうなる。この日を跨(また)げばもう1年の齢がめくられ、以降10年はずっと60代と称するのだ。近くて遠きもの、きっと今年のその日のことだ。

 もうひとつ「遠くて近きもの」もあった。祝事だが、故郷での高校の同窓会の前日、ひとり娘の挙式があった。この日、思いも寄らず花嫁の父は泣いた。隣に立った花婿の父も一緒に泣いた。後日、娘の友人たちが作ってくれた25年目の育ちのDVDを見て、不覚にもまた泣いた。遠くて近きもの、寂しくもあれば心が弾みたまらなく誰かに聴いて欲しくなる時もある。


つどめ・まさとし氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる−男性介護者100万人へのエール−』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言−』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」−』、『子育てサークル共同のチカラ−当事者性と地域福祉の視点から−』など。