ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「いのち」のつながり

真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 私には「京都のおっかさん」と呼ぶ人がいます。私だけではありません。「おっかさん! 会いにきました」と、日本国内はもとより外国からもたずねて来ます。優しい言葉は使わず、むしろあるときには厳しい口調で叱ってもくれます。

 先日、「子どもが大学に入学することになったけれど、住む所が見つからない」と、友人僧侶から連絡がありました。私は、おっかさんに助けを求めたのです。すると翌日には、おっかさんが昔住んでいたというアパートを空けてくれ、いつでも住めるように布団から冷蔵庫まで準備をしてくれました。ずうずうしい私は「洗濯機はないでしょうか?」と聞くと、「そんなん、手で洗え! 昔は皆、そうしてたんや」と(笑)。厳しい中にも温かい人間の「情」が感じられる人なのです。

 さて、自分の子どものことを「我(わ)が子」と言います。それは、自分が手塩にかけて育てた子どもはかわいいということです。しかしおっかさんは、他人の子どもも「我が子」と言っているのです。

 『歎異抄』の中に、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」とあります。

 つまり親鸞聖人は、「実父母だけのために、一度として念仏したことはありません」と、度胆を抜くようなことをおっしゃったのです。一見、何という「薄情な人」なんだと思いますね。そうではありません。なぜなら「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」とおっしゃったのです。親鸞は、「いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりがあって生きる父母兄弟のような存在だからである」とおっしゃったのです。

 私たちは、多くの人と関わりながら生きています。その関わりは、血を分けた両親や家族、親しい友人というところにとどまるものではないのです。私たちの気がつかないところで、すべてのいのちと関わり合い、支え合っているのですね。


かわむら みょうけい氏
アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。