ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

本当の葬儀とは

真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



先日、ある方から「葬式は家で済ませました」という電話をいただきました。事情を聴くと、「母親が亡くなり、斎場で火葬したあとは家族で合掌して済ませた」というのです。済ませるという表現になんともいえない寂しさを感じたのです。「済ませる」と言う一つには、「葬式は手間がかかり、煩わしい」というものがあるからなのでしょう。

 そもそも、葬式とは「お世話になった人たちにお別れを告げ、お礼を申し上げる場」です。遺族や参列者は、亡き人から学びお世話になった事を振り返り、頭を下げ、お念仏申すのです。人生の最期を「死」という悲しみや寂しさだけで終わらせるのではなく、感謝でもって見送るのが葬儀という「場」なのです。

 私たちはこの世に生まれて死ぬまで、多くの人と関わり、多くの恩恵を受けてきました。同時に迷惑もかけて生きてきたのです。このことに頭を下げなければ「ただ虚(むな)しい人生」で終わってしまいます。

 「済ませる」の理由に「この寒い中、多くの人に来ていただき、迷惑かける。手間もかけたくない」という気持ちもあるでしょう。また、ある人は、葬儀にお金かけるより、自分の生活の方が大切だという方もおられます。気持ちはわかりますが、この手間が大切なのです。それを面倒だといったら亡き人は遺体処理になってしまいます。

 葬儀は商品ではありません。仏事です。遺体ではなく仏さまなのです。葬儀を通じて仏さまに手を合わせ、お念仏いただくのです。そして残された私たちが「死」を通じて、一度きりの人生だということを認識させていただくのです。冥福を祈るという傲慢(ごうまん)なことはしません。仏さまは「欲望のままを生き、人と争い愚痴だけの人生で終わるのか、あなたの大切な命をまっとうし、人と人が育てあう関係で生きるかでは大きな違いがある」と教えてくださいます。葬儀は残された私たちに大切なことを教えてくれる場なのです。


かわむら みょうけい氏
アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。