京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●コラム「暖流」
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。 人に成る真宗大谷派僧侶 川村 妙慶
新幹線で移動中、手錠をかけられた青年が警察官に囲まれて歩いていました。青年をみながら、胸がしめつけられる思いでおりました。いったい何をしたのでしょうか。
昔、ある刑事さんとお話をしていたとき、印象的なお話をしてくださったことを思いだしました。「その人間をつくるのは家族でもあるが、友だちでもあるのですよ」と。 つまり純粋な真水で生まれた人間も、日々の環境、出遇(であ)いから、考え方が濁ってくることでしょう。 平気で犯罪の話をする人間の中にいれば、それを正当化する考えがうまれます。平気で人の悪口をいう環境の中にいるとそれが当たり前となるのかもしれません。「慣れ」ほど怖いことはありません。人間は環境によって変わってしまうのです。 ある人は言います「私さえしっかりしていたら大丈夫」と。では「意思」が固ければ私は犯罪を犯さないのでしょうか? そうではありません。 親鸞聖人は「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)とおっしゃいました。 しっかりしてさえいたら、罪を犯さないという発想は「自らを善人にし立て、罪を犯した人を否定してしまう傲慢(ごうまん)な考えです」。人間は、ある状況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったら、何をしでかすか分からないのが煩悩を抱えた私たちなのです。「あの人は善い悪い」と断定してしまうのは「怒りや憎しみを増幅させる世の中を作るだけ」です。阿弥陀(あみだ)様は、煩悩に流され自分を見失ってしまう私にしっかり向き合い、「それが人間の生きかたなのか?」と問うておられます。人は教えに出遇い、人は人に育てられはじめて人と成るのです。 ある死刑囚の残した言葉が忘れられません。「罪を犯す前に本当のことを教えてくれる人と出遇いたかった」と。 かわむら みょうけい氏 アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。46歳。
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