ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

精神のフレコンバッグ

ACT―K主宰・精神科医 高木俊介




 2年ぶりに福島を訪れた。震災直後に相馬市、南相馬市を訪れ、ある施設の引っ越しを手伝うのに、原発の直近まで行ったことがある。放射線防御服に身を固め、厳重な検査を受けた。美しい森に囲まれた施設の入り口で、通常の千倍の放射能を検出して驚いた。

 その2年後に同じ場所を訪れ、計算通りに放射能が減弱していることをみた。だが、残った放射能は、その核種の性質から、これ以上は数十年という長い年月をかけなければ減らないこともわかっている。

 それでも福島市や郡山市など都市部では、人々は穏やかな日常を取り戻し、復興は進みつつあるようにみえた。私の中でも、震災も原発事故もだんだんと過去のものになりつつあった。

 今回、いわき市から楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江と、原発の脇腹を貫く国道6号線を走り、そこで見た光景に愕然(がくぜん)とした。各所の線量計に、通常の数十倍の高線量が表示され、その中をひっきりなしに車が行き来する。バイクは通行禁止となっているが、車だからといって被ばくを防げるわけではない。

 国道の両脇には、手入れされていない林木がうっそうと茂る。鉄柵で囲まれた震災時のままの商品が並ぶスーパー、崩れ落ちて放置された民家の屋根瓦と土壁、一面のススキ野原となった田畑…5年前そのままの風景が残されていた。新しいものは、除染によって出る放射性廃棄物をつめて積み上げられた黒い袋ばかり。

 人の手が入ることのなくなった田野と森は、今さらかつての大自然に戻ることもできず、ただひたすら放射性物質とともに崩壊し続ける。原発事故は私たちのこの国にとてつもない空虚を穿った。私たちが抱え込み、見ることをやめてしまった廃墟。この廃墟に不気味に積み上げられた黒い袋をフレコンバッグという。

 見たくない現実、忘れたい現実を覆い隠す袋、私たちの精神のフレコンバッグ。どす黒い袋に放り込まれたまま、私たちはどこへ行こうというのだろうか。



たかぎ・しゅんすけ氏
2つの病院で約20年勤務後、2004年、京都市中京区にACT-Kを設立。広島県生まれ。