京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●コラム「暖流」
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。 「下げる」と「下がる」真宗大谷派僧侶 川村 妙慶
昨年の流行語大賞は「神ってる」でした。これには、さまざまな意見がありますが、人間の手には及ばない神がかりな出来事をこのように表現したのでしょう。人間にとって「神」は、手の届かないほど大きく、また怒らせたら怖いという存在ですね。その怖いというのは、神さまだけではなく、人間関係の中でも存在するのではないでしょうか。
会社では、とても盾突くことなどできないような怖い存在の人がいます。家庭でも「うちのカミさん、怖くて」というように、字こそ違いますが、怖い存在になっている人もいます。そうなると、「ここは無難に頭を下げておかないと、後が怖い」と頭を下げることしかできません。 人間関係で大切なのは、無条件に「下がる」関係を持つということなのです。それを教えてくれるのが、仏さまです。 「いつもありがとう」という声を聞けば、相手はその言葉を受けて「こちらこそありがとう」と言い、お互いの頭が下がります。「皆さんのおかげで新年を迎えさせてもらいました」と言うと、相手も「私こそ、おかげさまやね」とお互いの頭が下がるのです。そこには権威も論争もありません。 先日、実兄が入院することになり九州の実家に帰りました。誰もいないお寺で掃除をしていたら、亡き母の日記が出てきました。「親らしいことなど何一つできてないのに、2人の子どもは育ってくれました。南無阿弥陀仏」と書かれています。その思いを受け継いだ兄は、一人でお寺を守ってくれている。「兄が守ってくれているからこそ、私は仕事をさせていただいているのだな」と、その慶(よろこ)びに、頭を下げずにはおれませんでした。 南無阿弥陀仏の「阿」は否定をあらわす言葉です。「弥陀」とは、「量る」という意味で、「阿弥陀(あみだ)」とは、量ることができないということです。「仏」とは、目覚めるということ。自分の力では量ることのできない、尊いことに目覚めたとき、私を支えてくれている全てのことに頭が下がるのですね。 かわむら みょうけい氏 アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。
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