ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

母のこと

立命館大教授 津止正敏



  母の四十九日の法要を終えた。先月6日の葬儀の後、諸般の手続きをこなしながら過ごしてきた。実家に残してある墓地の管理や年金、保険等々に関わる役所との折衝や必要な書類の取り寄せに苦労した。早くに他界した父の時は母が担ってきたのだろうか、と思うと作業の手も鈍った。

 一つ一つの書類に、生前あまり詳しく聞くこともなかった母の生きてきた証しがあった。鹿児島の小さな離島に生まれ育った母は、父と昭和25年7月に結婚し、翌年9月には待望の長男を授かった。が、その子は生後6カ月でこの世を去った。血涙の日が続いた、と話してくれたこともあったが、母はこのことをあまり話したがらなかった。私も詳しく聞くこともしなかった。その1年半の後に、その子の生まれ変わりのように。男の子が生まれた。私だ。幼くしてこの世を去った兄の分も合わせて、両親はもちろん同居していた祖父母や親族から、私は有り余るほどの愛情たっぷりに育てられた、らしい。その後母は2人の娘にも恵まれ、夫婦と子ども3人、貧しいながらもこの頃の暮らしが母には一番の幸せな時代だったのかもしれない。父が病に倒れあっという間に他界したとき、母はまだ46歳だった。高校2年の私を頭に、2人の妹たちはまだ小学校に通っていた。子どもだけを生きる糧に、母は生業(なりわい)にしていた紬(つむぎ)を織った。父の死を悲しむ間もなく懸命に働いた。今も私の記憶に残っている母の姿はこの頃のものばかりだ。

 その母はもういない。93歳の大往生だ、と人は言うけど、覚悟はあってもやはり寂しいものだ。母にしてあげられたことも幾つかあったに違いないが、そうではなかったことの方が脳裏をよぎってつらくなる。「あれでよかったのか」。全介護で暮らした晩年の数年を思うとき、その気持ちはよけいに強くなる。でも、母のことだ。自分のことはさておき、還暦を過ぎた息子のことを、いまも彼の岸からあれこれと気遣っているに違いない。「仕事は大丈夫か。風邪はひいていないか」



つどめ・まさとし氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる−男性介護者100万人へのエール−』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言−』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」−』、『子育てサークル共同のチカラ−当事者性と地域福祉の視点から−』など。