ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「する」でも「される」でもない

立命館大教授 津止正敏



  「する(能動態)」でもなく「される(受動態)」でもないもうひとつの世界を中動態という。そしてこの態ははるか昔に言語・文法の世界から消えていったという。第16回小林秀雄賞を受賞した國分功一郎著『中動態の世界』(医学書院、2017年)の受け売りだが、驚きだ。

 大学院ゼミで輪読し始めたのだが、著者の専門は哲学。サブタイトルに「意思と責任の考古学」とあるように、本書には古代ギリシャ語など言語学や文法学などの専門用語が飛び交う。私には全く馴染みのない分野だが、著者の直接的な執筆動機が薬物などの依存症当事者や研究者等との交流にあったというので興味を引かれた。

 読み進めていくうちに、この中動態の世界は私が手がけてきた「ケア」に関わる幾つかの臨床場面に重なった。新しいエビデンスに出会ったような不思議な感覚にもなった。なぜ言語の世界から中動態は消え、能動態と受動態の対立が支配的になったのか。著者は、「出来事を描写する言語」から「行為者を確定する言語へ」という言語の移行の歴史にその解を求めている。この指摘はケアする人の意思と責任が問われる以前に、「ほっておけずに」手足も心もスイッチが入るケア領域の本質を射抜いているようだ。このケアの衝動は、能動性の塊のように解説されてきたボランティアにも埋め込まれている。「やむにやまれず」起動する行為も自らの意思による自発的という以上に、強制でも自発でもない中動態に相応しい領域ではないか。重要なのは誰が「する」のかではない、行為そのものだ。

 古代ギリシャ語にその痕跡を残すという中動態があった世界は、自己と他者を区別する境界すら意味を持たなかったに違いない。そこでは「する」でも「される」でもない生活行為そのものが社会のコアとして成っていたのであろう。その後の能動と受動の対立全盛期にあってもなおケアやボランティアは中動の態を成している。その意味を問うことはその価値を知ることだ。




つどめ・まさとし氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる−男性介護者100万人へのエール−』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言−』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」−』、『子育てサークル共同のチカラ−当事者性と地域福祉の視点から−』など。