ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

和やかに生きる

真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 令和の幕開け、全国各地で「おめでとう」の声が広がりました。この「おめでとう」の語源は、「愛(め)でたい」、「めでる」という意味があるそうで「新しい年を、愛したい」という気持ちがあったからこそ盛り上がったのでしょう。しかし、元号が変わるカウントダウン後、花火やクラッカーのゴミが散乱。「令和」発表の号外が配られたとき、人々が争うように群がり、怒号が飛び交う様子が報じられていました。他人を押しのけて自我を押し通す様子に、なんともいえない寂しさがこみ上げてきました。これも「おめでたい」ことなので仕方がないのでしょうか。

 愛でるという愛の裏側には、「区別の思い」が隠れています。例えば、わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心が生まれます。愛するがゆえに嫉妬も生まれます。何かを愛するという心の裏には、気に入らなかったら排除するという心が潜んでいるのです。これを「自己の欲望充足のための愛」といいます。

 聖徳太子は、「和(やわ)らかなるをもって貴しとし、忤(さか)うること無きを宗(むね)とせよ」(十七条憲法)とお言葉を残されました。「気の合う人だけの集まりを作るのが本当の和ではない。争わないことを根本としなさい」と聖徳太子はおっしゃっているのです。「生涯の親友」と誓った仲であっても、自分の都合が通らない場合「あんな人とは思わなかった」と切り捨ててしまうのです。そこには、相手と和としていけず、「忤」らおうという思いが渦巻いているのです。ゆっくり周りを見渡しましょう。人間は一人一人が違う感覚を持って生きています。完璧にはなれない者同士が支えあって生きていくことしかできないのです。

 「令」は「素晴らしい」「喜ばしい」「せしむ」という意味があるそうです。どうか令和の時代、自分中心の考えで善悪を作らず、争うことから離れ、すべてのことを「和やかに」包んで生きていきたいですね。


かわむら みょうけい氏
アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。