ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

お金で買えない事

真宗大谷派僧侶
川村 妙慶



 先日、衣で歩いていると外国人が私に合掌しました。その姿を見て南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称(つな)えながら合掌させていただきました。ナムアミダブツはインドから中国を経て日本に伝わった言葉です。インドでは、「ナマステー」とあいさつします。この「ナマス」と「南無(なむ)」とは同じ語源で、「尊ぶ」という意味があります。「テー」は「あなた」で、「私はあなたを尊びます」という意味です。しかし、純粋に目の前の人を尊ぶことができるでしょうか? 阿(あ)は否定語、弥陀(みだ)は西洋ではメーターと呼び、長さの単位のことです。つまりア・ミダとは「決して数字で量ることができない」という意味なのです。それが、「無量」と漢字があてられました。私たちは、量(はかり)のある世界を生きています。「あの人は出来る」けど、あの人は「何も出来ない人」と評価をされます。すると知らずの間に、頑張って力を入れてしまいます。しかし、どれだけ頑張っても定年がまっています。今度は、「若い、老いている」と年齢で量られるのです。

 なぜ「お内仏(仏壇)」を安置するのでしょうか。それは、「金や能力では買えないものがあるよ」と仏さまのメッセージを聞く大切な場なのです。お内仏は、「本」当のいのちの「尊」さを教えてくれます。だからご「本尊」といいます。そこに両手を合せるのです。手というのは「上手」「下手」と言うように、人間が仕事をする手でもあります。手を合わせるということは、仕事ができない無抵抗の状態にしてくれるのです。仏様は「あなたの尊い『いのち』を、傷つけられても、傷つけてもならない」と教えてくれます。そして手にお念珠をつけます。幾つもの珠が糸で繋(つな)がれ丸い輪になっています。こうして今、私が存在するのも、亡きご先祖さまがおられるから。人生、うれしいことも、苦しいことも人に言えないことも、全部、ご縁という糸で繋がっているのです。

 お盆の時期、お内仏に座り、お金で買えない尊い事を感じていきませんか?


かわむら みょうけい氏
アナウンサー、正念寺(上京区)坊守。メールで悩み相談受け付け。北九州市出身。