ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

表現の自由と寛容の精神

ACT―K主宰・精神科医 高木俊介




 不寛容が社会に充満している。

 自分が気にくわないものは、排除してしまえという短絡的な考え方だ。要するに子どもっぽいのであるが、公正であるべき政治家すらもがそんな気分に染まっているのが気がかりだ。

 この夏、ある美術展で、展示の一部が中止される事件が起こった。その開催自治体の長であり、かつ自らが会長代行をつとめる人物が、ある作品についての自分の感想から作品の展示中止と撤去を求めたのだ。

 問題にされたのは一人の少女の像である。悲しみとともに、優しさと強い意志を感じさせる彫像だ。かつての戦時中に「慰安婦」がおかれた苦しみ象徴し、戦争の悲惨を問うており、当然大日本帝国への批判を含んでいる。だが、それは「平和の少女像」と題されて、未来に向けて共に平和のために協働しようというメッセージにもなっている。

 市長は、ひとつの作品にこめられた意味の多様性、表現がもつ広がりをまったく理解せず、少女像が日本を侮辱しているものだと決めつけた。市長の発言に煽(あお)られて、普通の人々までが主催者に脅迫的な言動を寄せるようになり、展示は中止に追い込まれた。

 市長は、「日本人の心が踏みにじられた」「そのようなことに税金が使われるのは許されない」とのたまう。それを言うなら、あなたのような方が公的職務の長についている国であることが、私は同じ日本人として恥ずかしい。そんなあなたを税金で養ってあげていることが、悔しい。

 政治家が自分の演説への市民からの野次(やじ)に過剰に反応したり、差別的発言に平然と居直るのも、不寛容の現れだ。この不寛容の広がりを放置してはならない。

 だが、不寛容は追い詰められた人間の習性である。同じ不寛容で対応することは意味がない。不寛容な彼らの発言もまた保障する「表現の自由」という寛容を、守り続けるしかない。

 やがては豊かで自由な社会と、そこで育まれる平等な人間関係が、不寛容にひるまぬ寛容を生むだろう。



たかぎ・しゅんすけ氏
2つの病院で約20年勤務後、2004年、京都市中京区にACT-Kを設立。広島県生まれ。