ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

人の話を聞き流す工夫

もみじケ丘病院院長、精神科医 芝伸太郎



 親友A君から聞いた話です。A君はあるご仁と面談しました。一つの案件についての対等な立場での協議であったはずが、先方はどうやらA君に対し一方的にいろいろと教示したがっているような様子で、しかも物腰は柔らかなるも物言いは上から目線といういわゆる慇懃(いんぎん)無礼を絵に描いたような振る舞いで、内心不愉快に感じたA君ではありましたが「有益な助言を得られるのならここは我慢」と手帳にいちいち書き取りながら拝聴するという「大人の態度」で応じることにしたというのです。メモしているA君の姿にご仁は大層ご満悦だったそうです。

 ところがご仁が得意げに語る指摘はどれもこれも本質からあまりにかけ離れたどうでもよい些事(さじ)ばかり。メモを取る作業がA君には途中からばかばかしく苦痛になってきました。さりとて有頂天にご高説を垂れているご仁の手前、パタッと手帳を閉じるわけにもいかず「さてどうしたものか」と思案していたところ、太宰治「人間失格」の「へへののもへじでも書いているに違いないんです」の一文をA君はふと思い出しました。これは「へのへのもへじ」の別称です。

 その場で時間をやり過ごすだけならば「へのへのもへじ」で十分と、A君はご仁が何か一つ教授するごとに、大げさにうなずきながら、手帳に一文字一文字ゆっくりと丁寧に「へのへのもへじ」の人顔を描き続けました。ご仁の話をA君は完全に聞き流す戦略をとったわけです。つゆ知らずのご仁は最後まで喜色満面で、面談が終わったときA君の手帳には十数個の「へのへのもへじ」顔が残りました。

 人の話を「聞く」ことは大切ですが、相手や状況次第では「聞き流す」ことも必要で、心を病む方に「聞き流す」のが不得手な人が多いのは臨床的事実です。とはいえ「聞いているふりをしながら聞き流す」のは存外難しく、A君の手法は極端であるにしても、心の健康を保つための「聞き流す」さまざまな工夫はぜひ皆さんにお勧めしたく存じます。

しば・しんたろう氏
京都大学医学部卒。兵庫県生まれ。
1991年もみじケ丘病院。2018年より現職。専門は気分障害の精神病理学。