ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

スマホはなかったけど

立命館大教授 津止正敏



スマホのない時代に人はどのように連絡を取り合ったか、というある全国紙のコラムを目にして、半世紀前の記憶に思いがいった。

1973年春寒のこと。故郷鹿児島から受験のために上洛した。京都で浪人生活を送っていた高校の友人を頼って汽車に乗った。新幹線はまだ岡山止まりの時代、夜行列車が常だった。何かの事故があったのだろう、列車が遅れ予定の時間をはるかに過ぎて到着。駅に友人の姿はなく、手元には彼の下宿先の住所だけ、電話番号も知らなかった。

さあどうしたものか。あの頃、誰もが頼ったのはどこの駅にも普通にあった伝言板だった。探して行けば、あった。「津止、下宿で待っている」。住所は吉田山辺り。田舎者の私にはバスや路面電車を乗り継いでという知恵はなく、ただひたすら地図を頼りに吉田山を目指して歩いた。烏丸通りを上り今出川通りを東へ。碁盤の目の京都の街が何よりの助けになった。

どのくらい歩いたのだろうか。目の前の電柱を見て、驚いた。「津止→」の張り紙があった。さらに行くとまた電柱に「→」が、そしてアパート前に「ここ」とあった。歩き疲れもあったが、やっとたどり着いた安堵(あんど)と久方の再会の高揚が勝った。北山修さんに憧れ医学生を目指していた彼のギターで戯れながら、夜遅くまではしゃいだ。翌朝、治まらぬ頭痛にいら立ちながら、何とか受験を終えたが、その夜もまた同じことをくり返した。復路、旅費を惜しみ寝台列車を避け夜行の急行にした私は、案の定体調を壊して人生初の入院。直後の東京での受験機会を逸した。友人もまた願叶わずにその後2年目の浪人生活に入った。2人ともしばらく互いのせいにして心の平静を保った。

73年。ベトナム戦争和平協定、金大中事件、チリ軍事クーデター、第4次中東戦争とオイルショック、そして「あしたのジョー」の終了。鮮明に残る記憶。スマホはなかったが、時代や人と深くつながってはいた。今や一心同体となったスマホを手に、ひとりごと。


つどめ・まさとし氏
1953年、鹿児島県生まれ。立命館大学教授。大学院社会学研究科修士課程修了。
京都市社会福祉協議会(地域福祉部長、ボランティア情報センター長)を経て、2001年から現職(立命館大産業社会学部教授)。2009年3月に「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」を発足させ、事務局長を務める。著書に『ケアメンを生きる−男性介護者100万人へのエール−』『男性介護者白書―家族介護者支援への提言−』、『ボランティアの臨床社会学―あいまいさに潜む「未来」−』、『子育てサークル共同のチカラ−当事者性と地域福祉の視点から−』など。