ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
コラム「暖流」

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

チフスのメアリーの物語

ACT―K主宰・精神科医 高木俊介



「チフスのメアリー」と呼ばれた女性がいた。百年前のアメリカ。有効な治療がなく感染症が今よりもずっと恐れられていた時代だ。メアリーは、料理上手な雇われ家政婦として暮らしていた。その彼女が働いていた家庭で腸チフスが発生したのだ。

公衆衛生局が調べると、メアリーの働いた家庭の多くに同じ病気の発生が認められた。メアリーは直ちに拘束され検査された。その結果、彼女自身は健康であるが、その胆嚢(たんのう)にチフス菌が保持されていることがわかる。それが時に糞便(ふんべん)に混ざって排せつされるのだ。

急速にマスコミが発達しつつあった当時のアメリカで、彼女の名は一躍広まる。健康体のうちに病原菌を持つ彼女は「毒婦」「無垢(むく)の殺人者」「歩く腸チフス工場」と誹謗(ひぼう)され、長い隔離生活のうちに死んだ。

社会からは非難と排除の対象でしかなかった彼女は、実際の隔離生活では親切で敬虔(けいけん)な人柄で周囲のスタッフに好かれ、細菌学者の助手もして過ごしている。マスコミに毒婦と扱われ社会から排除されながら、少数の知己に恵まれて尊厳を保って生きたのだ。

それから百年後の現代。症状が出ていない人からも感染するコロナ・ウイルスが出現した。人々が互いに人を「チフスのメアリー」ではないかと疑いながら暮らす世界がはじまった。

医学が発展しても、感染症に対する人々の恐怖心は変わらないようだ。マスコミは不安ばかりをあおり、人々は病人を嫌悪する。

だが、症状のない人から感染する病気は実はいくらでもある。インフルエンザすらそうだし、多くの感染症は人の体のどこかに潜む。人間は細菌やウイルスと共存して進化してきた。

隔離が個人の人生を奪うように、人と人との距離や黙食、リモートの集まりは、人の社会から大切な何かを奪う。公衆衛生の徹底には多くの副作用がある。

清潔と安全を求めすぎることで私たちの人生と社会から失われてしまうものの大きさに、そろそろきちんと目を向けてよい時だ。


たかぎ・しゅんすけ氏
2つの病院で約20年勤務後、2004年、京都市中京区にACT-Kを設立。広島県生まれ。