ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

障害者にレスリング指導
練習工夫、五輪の夢再び

 

浅井 努(あさい・つとむ)さん



 八幡市男山にある府立京都八幡高のレスリング場。「足踏みの次は、ひも取りや。5本やろうか」。ダウン症などの知的障害者と中高校生との2人1組の練習を指導するのは、同高の体育教師、浅井努さん(45)=宇治田原町。マットの周囲には、障害者の父母らも見つめる。

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障害者の体調を考慮して、練習は1時間半。「レスリングを通して、生きる力をつけさせたい」と浅井教諭(中央)=八幡市・京都八幡高のレスリング場
 あらゆる人たちにレスリングを普及させたい思いと、生徒たちの人間としての幅を広げたい教育的観点から、2007年11月に「京都八幡わくわく楽しいレスリング教室」を設立した。今では登録する障害者は30人近くに上り、他府県からの参加者も多い。「もっと教室を開く回数を増やしたいが、とにかく時間が取れなくて」と、月2回(土曜午前)と限られた練習にもどかしそうだ。

 岐阜県出身。小、中学は柔道に打ち込んだが、地元でレスリングの名門として知られる高校の関係者からスカウトされ、高校からレスリングに転じた。「なんとしてもオリンピックに行きたい」。日体大に進み、技を磨き、体力をつけることに没頭した。レスリング界では広く知られる存在になった。そして、卒業後すぐに迎えたバルセロナ五輪(1992年夏)の最終選考の試合。相手選手の技の切れに屈した。「悔しかったが、やるだけのことはした上での負けだったから」と未練はない。

 京都府教委に高校教師として採用され、最初の5年間は外郭団体の職員として勤務した。この間にも京都の大学などでレスリングの練習は続け、国体などには代表選手として出場した。「自分はオリンピックには出場できなかったが、いつか教え子をオリンピックに送り出したい」。そんな思いは抱き続けた。1997年4月、当時の八幡高(2007年に南八幡高と統合し、現校名に)に赴任し、翌年春には男子レスリング部を創部した。「勤務する学校の生徒だけに教えるのではなく、地域に開放し、小、中、高校生に教えたかった」といい、当初から一貫して幅広く子どもたちを受け入れ、指導してきた。今では、同高のレスリング部は全国高校総体で数多く優勝するなど高いレベルを誇っている。

 知的障害者と健常者が一緒になったレスリング教室は2006年に、早稲田大で日本で初めて開設され、障害者の情緒安定などに効果があることが分かった。現在、教室は全国に3カ所あるが、西日本では八幡教室だけ。最初は試行錯誤の連続だった。「集合」の意味が分からなかったり、マットに上がっても、すぐに降りたり、動かない人もいた。「相手の足の甲を踏む独自の練習方法を取り入れるなど、分かりやすく飽きのこないように工夫した」という。5年間、息子を通わす枚方市の母親(54)は「浅井先生が根気強く教えてくださり、子どもはここに来るのを楽しみにしている。何事にも積極的になったように思う」と喜ぶ。

 今月上旬に開かれた神奈川県横須賀市でのダウン症児者の全国大会。八幡教室からは7人の障害者が参加し、見事、3階級で優勝し、メダルをかけてもらった。喜ぶ顔、悔しくて次の大会で頑張ろうとする顔が並んだ。「この教室を開設し、続けてきて本当によかった」としみじみ思った。「レスリングの競技人口を増やし、いずれスペシャルオリンピックス(知的障害者のスポーツ祭典)の正式種目になるように努力したい」。現役時代とは異なる五輪への夢が膨らんだ。