ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

落語で元気を届ける
手弁当でも笑顔がうれしい

 

松崎 喜信(まつざき よしのぶ)さん



 CDから流れる軽快なお囃子(はやし)に乗って、着物姿で颯爽(さっそう)と舞台に登場するボランティアの松崎喜信さん(54)=守山市。

 「笑福亭爆笑(ばくしょう)と申します。少しの間、お付き合い願います」

 落語に入る前の「まくら」で観客を惹(ひ)きつけ、一時期、落語家を目指したほどの実力で笑いを誘う。「お客さんからいただく拍手と笑顔が忘れられずに、ボランティアを続けている」。心底、人前に立つのが好きな性格のようだ。

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自宅や通勤の車の中が練習場。堂々とした着物姿。鏡を前に表情を確認しながら「お耳を拝借します」(守山市吉身)
 中学2年の時、父親を病気で亡くした。「落ち込んだ暗い顔を学校で見せたくない」。喪中で学校を休んだ1週間、もともと大好きな落語のテープを聴きまくり、沈んだ気持ちに明るさを吹き込んで登校した。そんな姿を見ていた落語好きな先生から「落語クラブを一緒に作ろう」と誘われ。初代部長に。毎年の文化祭に欠かせぬ「中学生落語家」になった。高校でも落語クラブに入部し、すでに持ちネタは10本にも。「君が部長をやれ」。先輩からの命令で、1年生で部長を任されるほど実力は秀でていた。

 「どうしても落語家になりたい」。高校を卒業して就職、2年ほど働いたが夢をあきらめきれない。吉本興業に電話したところ、笑福亭仁鶴師匠を紹介され、その日のうちに豊中市の自宅まで飛んでいった。翌日、京都花月に出ていた師匠に弟子入りを直訴。後日、師匠を前に面接代わりの落語の披露が待っていた。極度の緊張のなか、取り上げたのは『初天神』。自信のある出し物だったが、師匠からは「おもろないなぁ」。それでも、7番目の弟子として住み込み修業が認められた。掃除や靴磨き、楽屋入りする師匠の世話、合間の落語の練習。緊張の連続で2日に1?のペースで体重が減り、体調を崩した。修業は1年ほどで終わった。

 好きな接客ができる飲食関係の会社に就職する一方、栗東市のボランティアセンターに登録した。21歳の時だった。「プロではないが、人に喜んでもらうために落語をやろう。修業時代の落語が生きる」。仁鶴師匠から「笑福亭爆笑」の高座名ももらった。

 ボランティアセンターなどを通して寄せられる出演依頼に、仕事との調整をしながら高座に上がる。多い年には滋賀県内を中心に、年間50〜60回出演したことも。今は草津市内の飲食店で働き、「仕事も高座もどちらもおろそかにできない」とやりくりする。とくに、敬老会が開かれる9月は依頼が殺到し、「一日で複数会場を掛け持ちする」ほどの人気ぶりだ。

 「落語は頭で覚えているうちは高座に掛けられない。何度も口にして、腹で覚えてこそ持ちネタになる」。そんな持ちネタも増え、「道具屋」「延陽伯(えんようはく)」など30本ほどに。2年続けて依頼のあった高座先にはネタを変えるなどの配慮も。中には「他の出演者のキャンセルがあったので、もう一本、落語をやって」とお願いされることもある。

 高座用の着物は自分で買い求め、交通費も自己負担。出囃子の入ったCDも持ち込みだ。病院や高齢者施設から呼ばれることも多い。「私の落語を聞いた方が笑って元気になってもらえば、何よりもうれしい」。どこまでもサービス精神旺盛な人だ。