ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

組合からボランティアの要へ
助け合いの精神で奔走

 

曽谷 武(そたに たける)さん



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オカリナの仲間たちと練習に励む曽谷さん。「音楽は心を和ませてくれる」(宇治市宇治、市総合福祉会館)
 組合活動で培ったリーダーシップが今は福祉の充実に生かされる。宇治市社会福祉協議会副会長の曽谷武さん(72)=宇治市=の肩書は齢を重ねるごとに増えていく。宇治ボランティア活動センター運営委員長、宇治市災害ボランティアセンター運営委員、府共同募金会評議員、今年からは府災害ボランティアセンターの先遣隊にも請われて就いた。「人から頼まれたら、断れない性格」と謙遜するが、思慮深く、温厚な人柄が周囲をひきつける。

 高校を卒業した1962年、日本電信電話公社(現NTT)に入社し、主に京都市内の各電話局で勤務した。「何かおかしいぞ」。故郷の宇治市内の電話局に配属された時、地域手当の支給をめぐって疑問が涌いてきた。「組合活動を通して、平等な労働環境を作りたい」と組合運動中心のサラリーマン生活を送った。組合員にもいろんな考えの人がいて、徹底的に意見を聞いた。深夜は当たり前。調整しながら意見を聞く姿勢が周囲の人望を集め、地域の労働組合の集まりである連合京都南山城地域協議会の事務局長に推された。1991年だった。異業種の人との付き合いも深まっていった。

「これからはボランティア活動が重要になる。センターを作りたいので、準備委員になってほしい」。組合活動を通して知り合った宇治社協の幹部から要請された。福祉活動と関わるきっかけになった。本業の仕事、組合活動、福祉、「どれも手抜きはできない」とかけずり回った。市民が主体となり、運営する宇治ボランティア活動センターは1995年に設立され、阪神大震災の時もフル稼働した。組合を通しての支援と両立させながら「多数の市民が災害復旧に携わった。募金集め、現地との調整など大変だったが、充実していた」。一人はみなのために、みんなは一人のために−組合の助け合いの精神が生きていた。

 公社が民営化され、仕事の内容も年々変わっていった。「そろそろ潮時か」。2002年、59歳で早期退職するとともに、社協副会長の要職を請われ、続いて宇治ボランティア活動センターの運営委員長にもなった。組合から福祉に活動の場は移った。

 「大きな被害が出なければよいが」。3年前の夏。夜来の集中豪雨が宇治を襲った時、曽谷さんは心配で眠れなかった。一夜明けると、市内数カ所で大きな被害が出ていた。川の堤防の決壊、家屋の全半壊、床上浸水は800世帯近くに上った。社協の職員らと被災地を回り、停電で冷房が止まった障害者のいる家庭などで素早い対応に努めるとともに、ボランティアの受け付けにもすぐに取りかかった。「困っている人を助けるのが、ボランティアの本来の姿。早く行動することが大切」と話す。

 サラリーマン時代から習いたかったというオカリナを退職とともに習い始め、定期的にレッスンを重ねる。請われれば、サークル仲間とともに福祉施設などに出かけ演奏する。「ボランティアをして、施設の人に喜んでもらえるのがうれしい」といい、今ではミュージックベルやトーンチャイムにも取り組む。

 田んぼや畑も耕作し、昼間、自宅にいる時間は皆無だ。「2人いるひ孫とは遊ぶ時間をつくりたいのですが」。2013年に京都新聞大賞福祉賞を受賞。