ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

繊維会社から作業所へ
賃金アップなど妥協せず

河村 一昭(かわむら かずあき)さん


写真
時間があれば、利用者とともに汗を流す河村さん=左。「今は福祉の世界に飛び込んでよかったと思う」(栗東市高野・第一くりのみ作業所)
 繊維関係の仕事から畑違いの福祉の世界に飛び込んで今年で15年。栗東市内に2カ所ある「くりのみ作業所」の責任者として充実した日々を送るのは河村一昭さん(62)=野洲市。「施設の利用者が生き生きと楽しい生活をするお手伝いをしたい、その一念でここまで来た」と振り返る。この春には作業所を運営するNPO法人「くりの木会」の理事長に就任、作業現場で利用者と汗を流す時間を大切にする。

 47歳の時だった。家庭の問題もあって、25年間勤め上げた会社を辞めることになった。アルバイトなどで生活をつないでいたが、新聞の求人広告に目が止まった。「施設の利用者と一緒に働いてみませんか」。福祉系の大学で学んだ長男(36)は高齢者施設に勤めていた。「自分は障害者福祉の世界で頑張ってみよう」。当時は無認可の施設だった栗東市内の東坂福祉作業所の求人に早速応募し、2001年8月に採用された。当時の利用者の月給は2千〜3千円。「真夏や真冬に戸外での作業もある。もっと労働に見合った月給に上げたい」。その思いは時間がたつほど大きくなった。

 入所者が増えて、行政の指導で作業所が分割されるなど曲折もあったが、働き始めて5年目の06年には所長に推された。翌年には作業所の場所を現在地に移転し、運営主体となるNPO法人の認証も受けた。「栗東の地に施設を根付かせたいとの思いで、自ら提案して施設名を『くりのみ』と一新し、法人名も名付けた」という。

 「もっと工賃がよい作業はないか」。所長として新聞のチラシやネットなどで新しい仕事や内職を探し、ふさわしそうな作業を見つけると、自ら会社に出向き折衝している。「障害者の施設だから、こんな作業でよいと妥協はしたくないし、一つ一つの製品にも自信を持って取引したい」との信念を貫く。サラリーマン時代、相手との信用を作り守るために、売る製品には一切、妥協は許さなかった。その姿勢は今も変わらない。「中間業者を通して仕入れ、完成品にして出していた製品があったが、中間業者から直接の取引を勧められた。施設で作る製品の品質が認められたわけで、うれしかった」と喜ぶ。4年前からは農家の協力でメロンの栽培も始め、今年は750個収穫、販売した。来年からはハウス1〜2棟を使って栽培する計画だ。NPO法人から社会福祉法人への移行も視野に入れる。

 利用者の月給は現在、仕事の内容によ?て2万5千円と1万3千円まで伸びた。「目標は一人7万円。障害者福祉年金と合わせて、自立していけるようにしたい」と高く掲げる。5年前から長男が一緒に働くようになり、今年春にオープンした第二作業所を任せている。親子で作業所をもり立てる。

 毎年1回、1泊組と体調面から日帰り組の2組に分かれ、旅行を企画する。今年は今月下旬に実施し、飛騨方面に1泊した。オープン間もない京都鉄道博物館には近く日帰り旅行を楽しむ。「家族と旅行に行けない人もいて、みんなとても楽しみにしている。利用者の旅先での笑顔を見るのが、私にとって何よりの土産」。