ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

恩忘れず人を助けたい
震災で避難、京で便利屋

紺野 英明(こんの ひであき)さん


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広い駐車場が必要なことから、2年前に現在地に移った。今では社員13人、車10台を動かし、奈良方面にも出かける(木津川市山城町平尾)
 JR奈良線棚倉駅に近い住宅街。「ねこの手ジャパン」の看板が掲げられた自宅兼事務所の一室から、元気な電話の声が漏れる。「エアコンですね。ハイ、分かりました。すぐ、お伺いします」。便利屋の社長として、忙しく応対に当たる紺野英明さん(45)=木津川市山城町。「東日本大震災からの避難者として多くの人にお世話になり、優しくしていただいた。困っている人を助けながら仕事をしたい」。そんな思いからスタートした事業も6年目を迎え、今では支店を構えるまでに成長した。「人に喜んでいただき、人の輪が広がっていく。毎日が充実している」。身体全体から満足感があふれている。

 「これはやばい」。5年前、東日本大震災が発生したとき、福島県いわき市の小さな運送会社で働いていた。妻とまもなく小学校入学を控える長女を頭に4人の子どもは小名浜(おなはま)港近くのアパートの自宅にいた。車で自宅に急いだ。アパートは半壊し、港の巨大な堤防は津波で崩壊していたが、アパートは高台にあったことから家族は無事だった。「原発は大丈夫なのか」。次の不安は東京電力福島第1原発。原発から30キロ圏外にはなっていたが、原発関連で働く友人からは危険な情報が次々と寄せられた。「乳飲み子もいる。子どもたちの将来が危ない」。保険証と財布だけを持ち、ワゴン車で家族全員が西に向かった。震災発生後、5日目のこと。

 行くあてがあったわけではない。「いずれ戻れるだろう。今は1キロでも遠くに逃げよう」。そんな思いだった。「連日の車中泊まり。着替えもなく、子どもたちには申し訳なかった」と振り返る。

 京都府が被災者を受け入れ、住宅を提供します?そんなニュースをたまたまラジオで聞き、京都に向かうことにした。1週間かけてたどり着いた京都府庁では被災者支援の申し込み第1号だった。最初、府北部の府営住宅を紹介されたが、「海にも、原発にも近い所はノ」とさすがに断り、府南部に住むことにした。「屋根のある所で寝られる」。それだけでうれしかった。

 「大変やったね。頑張りや」。府営住宅に入居すると、すぐに民生委員の人らが訪れた。部屋中を掃除してくれ、布団や食器、ガスストーブ、衣類、ひげそりなどたちまち生活に必要なものをそろえてくれた。人の温かさ、優しさをこれほど身にしみたことはなかった。心配していた小学校や保育園の入学・入園も多くの人の支援で無事、終えることができた。

 預金も底を尽き出したころ、たまたまテレビで便利屋を取り上げた番組を流していた。「自分は運送屋でしか働いたことがない。便利屋をやろう」。思い立ったら行動は早く、必要な情報を得ながら行政機関への手続きも済ませ、震災の年の11月、福島の友人と2人で開業した。「震災後、笑顔のなかった子どもたちに、明るさが戻ったのが何よりうれしかった」と喜ぶ。

 請け負う仕事は多種多様。顧客の信用を得て家の鍵を預かり、飼い主が旅行中のペットの世話をしたり、ラブレターを相手に渡したり、家主が入院中の植木の水やりノ。不動産売買や車の修理など専門的な要望には自身も参加する京都中小企業家同友会のメンバーに協力をあおぐ。仕事がなく、廃業を考えた時もあったが、ようやく軌道に乗った。「被災者として受けた恩は決して忘れない。いずれは被災地東北と関西をつなぐ仕事ができれば」。夢は広がる。