ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

地域で活躍できる社会へ
わが子の障がい契機に奔走

芳賀 久和(はが ひさかず)さん


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「障がい者が社会で活躍すればするほど、社会は変わっていく」という芳賀さん(中央)。CoCoネットのコア会議でもリーダーシップをとる(京都市南区・京都テルサ)
 障がいのある子どもを授かった時、親はどう生きていくのか。職業も住所も、そして考え方も一八〇度変えて、新しい人生を歩んでいるのが芳賀久和さん(42)=京都市上京区=だ。芳賀さんの生き方をみつめた。

 「障がいのある子が生まれてくるのでは」。東京で住宅関連メーカーに勤めていた時に結婚した妻との間に、待望の子どもができた。まだ、生まれる前だったが、なんとなくそんな予感があった。生まれたのは双子の男の赤ちゃん。子育て中、妻は育て難さを口にしていたが、芳賀さん自身もわが子が抱かれるのを嫌がったり、目が合いにくいなど違和感があった。そして、3歳児の発達診断検査で2人とも、発達障がいの「自閉症スペクトラム」であることが分かった。「違和感の原因が分かり、もやもやしていたものが晴れた。落ち込むことよりも、今後、どう生活を立てていくか、目先のことで悩みました」と当時の心境を話す。

 転勤が多い職場にいて、子どもが生まれた時は京都で働いていた。「これからも転勤が付きまとう。自閉症の子どもには環境の変化はよくない」と考え、転職を考えた。転勤がなく、時間に束縛されない仕事を、と考えていた時に、外資系の金融機関から声が掛かり、思い切って転職した。「頑張った分だけ収入も増え、私にはありがたかった」と感謝する。

 次に就学前の子どもを入園させる施設の問題。医師からは「普通の幼稚園に行かすのは子どもにストレスを生む」と指摘され、障がい児を預かる施設を訪ね回った。最終的に東山区の施設に決めたが、ここの園長から「父親の会を結成したいので、会長になってほしい」と頼まれ、二つ返事で引き受けた。「母親の会はよくあるが、障がい児を抱える父親の立場から情報を共有したり、さまざまな問題を考えたかった」といい、芳賀さん自身が講師になった研修会も開くなど活動を重ねた。わが子はすでに施設を卒業したが、会長はそのまま引き受けている。

 子どもは現在、小学校5年生で、京都市内の普通学校の支援学級に通う。入学するにあたり、市内の特別支援学校は全て訪問したが、一般の小学校の支援学級に通わすことにしたのは、「地域にはいろんな子どもが生活していることを多くの人に知ってもらい、学んでほしい」と思ったからだ。今の小学校に入学させるために、校区内に転居している。全てが子どものために、との考えだ。

 障がいのある子どもたちにいずれ訪れるのが就職の壁。人を雇う企業側が障がい者をどうとらえ、生かそうとしているのか知りたい、と出身地である大阪と京都の中小企業家同友会に入会し、障がい者の就労を考える部会に席をおいた。「弱者を雇うことで会社がよくなる。障がい者の雇用で生まれる企業の変化を、もっともっと広く知ってほしい」と願う。

 「それまでのサラリーマンの時は余裕のない日々だった。今は障がい児を抱える多くの親や子どもたちのために、どのような社会であるべきかを考えながら進む毎日。やりがいがあります」。力強く締めくくった。