ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
わたしの現場

「人大切に」の教え実現
介護の世界と一体の歯科医

山元 浩美(やまもと ひろみ)さん


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施設の利用者やボランティアらと談笑する山元さん(中央)。「ここに来ると、元気をもらえるんです」(大津市馬場、ときめきビル)
 小柄な身体に秘められたパワーが今、全開している。大津市におの浜の山元浩美さん(57)。女性歯科医師としてクリニックを経営し、高齢者のためのデイサービス施設や子ども食堂も開設、運営している。「歯科医の世界って、意外と狭い。介護などに携わって、いろんな方と出会い、元気をもらっている。世界が広がっている」とどこまでも前向きだ。

 JR膳所駅に近い商業ビルの3階にクリニックが、2階には「しらゆりサロン」と名付けられた介護施設があり、月曜から土曜の昼間、開かれている。火曜の夕方にはこのサロンを使って「しらゆり子ども食堂」もオープンする。山元さんの朝は7時にサロンに入ることから始まる。室内を整頓した後、クリニックへ。フロアの隅々まで雑巾がけなどし、9時からの診察に備える。「女性のクリニックらしくしたいし、自分で何でもやらなくては納得できない」と性格を分析する。午前の診察が終わると、階下のサロンに顔を出し、週1回は特技のピアノで昭和のメロディーや童謡を弾いて利用者に楽しんでもらう。「歌にまつわる話題などもお話しすると、みなさんに喜んでいただける」

 おじいちゃん子だった。母方の祖父は内科の開業医で、戦時中はお金のない人には無料で診察し、住み込みの看護師を大切にする人だった。「困った人がいれば助けてあげ、人には優しくしなさい」とよく聴かされた。歯科医の父親ももうけを度外視した患者本位の診察をし、人を大切にした。「いつかは人を支える仕事をしたい」との思いを抱いていた。

 歯科大学を卒業後、父親の開業する医院で働くとともに、3歳年下の大学の後輩と結婚。2人の子を授かったが、考え方が合わずに15年後に離婚した。その元夫が50歳で急死し、借金返済などの後始末を全て引き受けた。この間の42歳の時、「自分が考える理想の歯科医院を開きたい」と独立した。父親は賛成してくれなかったが、医者の家庭で育った母親は「あんたがやりたいのなら、独立したらよい」と後押ししてくれた。元夫の死去の1年後、父親も85歳で亡くなった。「元夫の死後の複雑なトラブルも処理できて、何でもやれる自信ができた。それに人生、いつ終わるか分からない。やりたいことをやろう」。そんな気持ちが強くなり、2010年12月に介護施設を開設した。歯科医院系列らしく、専門職は看護師のほかに歯科衛生士を雇う。偶然、目にした新聞からアイデアが浮かび、子ども食堂を15年12月にオープンさせ、週1回、15人前後の子どもたちが楽しんでいる。「どの施設もスタッフやボランティアに恵まれ、本当にありがたい」と感謝する。

 大学まではバスケットボールに打ち込み、スポーツ歯学も学んだ。そんな縁で、プロの滋賀レイクスターズの選手の治療やマウスガードの作製にもかかわっている。また、大津市内の幼稚園から高校まで7つの歯科校医も受け持つ。亡き父親からは「医者は健康管理も仕事のうち」と教えられた。「バスケをする時間はないが、毎日15分の昼寝は欠かさない。私の健康法」。3姉妹の長女。妹たちも訪問看護ステーションの運営やケアマネジャーなどとして福祉の世界で活躍する。大津市出身。