京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●この人と話そう
心から話せば、道は見える |
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福井県坂井市三国町の東尋坊タワーのすぐ近く、NPOの拠点であるお餅屋さんで茂さんと話す川越さん。ここには外国からも取材が来る。 |
《川越さんが事務局長を務めるNPO法人「心に響く文集・編集局」は、自殺の名所といわれる東尋坊に拠点を置いて、自殺防止に成果をあげていますね》
「東尋坊のちょっと待ておじさん」と呼ばれているNPO代表の茂幸雄さんと私が二人三脚で東尋坊に自殺しようとやってくる人に声をかけ始めて6年がたちます。私たちととことん話し合って再出発した人は、およそ250人になります。その中で再び自殺を図った人はいません。
私は自死遺族です。中学1年のとき父も母も自殺してしまったのです。私はつらい体験をもとに、自分のことしか考えられなくなっている彼らに家族のことを考えてくれるように語りかけてきました。
《以前はお父さん、お母さんのことは他人には決して話さなかったそうですが、どうしてですか》
父が自殺した前夜、父とけんかしたのです。父が土地問題で悩んでいることは知っていたのですが、私は暴力を振るう父が好きではありませんでした。けんかで思わず「死んでしまえ」と口走りました。翌朝いなくなった父を捜して、首をつった父を私が見つけたのです。
母は父の死について周囲から責められ、いろいろ言われて落ち込んでしまって、農薬を飲みました。父の自殺の引き金を引いてしまった。その気持ちが重くのしかかって、両親の自殺は決して触れてはならないものになりました。
残された家族に向けられる世間の目は冷たいものでした。私は中学を卒業してすぐに故郷を離れ、家族の間でも両親のことは話題に上らなくなっていました。
《それが変わったのは、茂さんとの出会いが大きな転機になったのですね》
結婚して福井に来たのですが、子育てが一段落して福井県警の中の喫茶店で店長をしていたのです。顔見知りだった警察官の茂さんに、自殺防止の文集に原稿を書くように頼まれました。
NPOの名前はそこからきているのですが、茂さんは私が自死遺族とは知りませんでした。偶然だったのです。両親が死んで30年以上がたっていました。「もういいのかな」。そんな思いで両親のことを文章にしたのです。
それがきっかけで茂さんの活動に加わりました。最初は自分のことは話せませんでした。でも追い詰められて東尋坊の岸壁にやってくる人と父母が重なりました。やっと、両親の死を真正面から考えられるようになり、向き合うことができるようになったのです。
《現在のご両親に対する思いはどのようなものでしょう。今は講演などで体験を話されることも多いようですが》
結婚して親の立場になったからかもしれませんが、お父さんもお母さんも一生懸命に生きようとしたんだ、と思えるようになりました。
懸命に生きたのに死ななければならなかった。本人の責任だけではないのです。懸命に生きたことをほめてあげたい。二人の人生を肯定してあげたい。私を産んでくれてありがとうといいたい。
子どもとして両親を認めることができるようになって、自分のことが話せるようになりました。みんなに語ることで、両親が生きた証を知ってもらいたい。同時に残された家族のあまりにも痛い、つらい思いも知ってほしい。それを話さないと私がここに居る意味がない。そう思っています。
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かわごし みさこ
1953年生まれ。NPOの拠点「心に響く おろしもち」=TEL0776(81)7835=の店長も務める。
相談者のお母さん的存在。NPO代表の茂さんは「東尋坊の母」と呼ぶ。その茂さんには、決して忘れられない体験がある。地元警察署にいた時、東尋坊で声をかけ、自殺を思いとどまった夫婦が、相談に行った自治体を「たらいまわし」されて結局自殺してしまう。自殺を防ぐには、生活の場や収入の道のめどが立つまで寄り添わなければいけない。この信念が茂さんと川越さんの活動を支えている。