京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●この人と話そう
ボランティアが市民社会豊かに
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名誉大会長を務めたボランティア学会の閉会式で、バトン代わりのだるまに目を入れ、次回開催県の代表に託す(2011年12月4日、同志社大新町校舎。左は実行委員長の名賀亨・華頂短期大准教授) |
《岡本さんは約60年の間、ボランティア活動の実践と研究に携わってきました。活動を始めたきっかけは何だったのですか》
大学1年のころ、福祉施設でワークキャンプに参加したのが始まりです。神学や哲学を志望していましたが、そこで恩師と出会って福祉を志し、2年の秋からは、かつて大阪湾の水上生活者のための「水上隣保館」だった児童養護施設に住み込んで大学に通いました。
《卒業後もボランティア活動を続けるのですね》
はい。水上隣保館からセツルメント、大阪ボランティア協会と場所は変わっても活動は重視してきました。セツルメントでは、医療ソーシャルワーカーとして、貧困などの問題が山積した地域で、たくさんのことを学ばせてもらいました。大阪ボランティア協会では資金がない中で、月刊ボランティアという機関誌を出したり、障害者が外出するためのサロンを開いたりしました。
ボランティアの本質は、自分の地位とか身分を越えて自発的にかかわること。そうすることで相手からもらうことも多くあって、そこがおもしろいんですよ。
《ボランティア活動で心がける点は何ですか》
障害者の生活範囲が広がるようにと、1976年ごろから大阪市の地下鉄駅にエレベーターを設置するための運動をボランティアとやったことがあります。ボランティア活動は善意だけでは駄目。ある時には、批判をしたり提言できるものを持たないと、いい形での問題解決に結びつかないのです。
それと相手の主体性を伸ばすために、どう援助するかです。近江学園を設立した糸賀一雄さん(1914―68)は「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」―と語っていますが、これは大事な視点です。自立を助けるということですね。
《95年の阪神大震災では被災地に多くのボランティアが駆けつけました。日本のボランティアのあり方も変わりましたか》
ボランティアと被災者をつなぐノウハウが大切だという発見がありました。130万とかの人が駆けつけましたが、社会福祉協議会やわれわれ民間団体が60年代以降に態勢を整えていたので、良い活動を支えることができました。また新聞やテレビで逐次報道してくれたので、日本中の人がボランティアというものについての理解がひろがりました。
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《今後のボランティアはどうあるべきだと考えますか》
ボランティアは自由な中で人間関係を潤沢にしていく側面があります。年齢や立場を超えて、人が人を支援する意味合いを大切にしたいし、その意味で企業ボランティアでも社内の人だけで固まらないでコミュニティーの中で活動するような工夫が必要です。その上で当事者も仲間に入ることができれば、なお学びが大きいと思います。今回の震災を契機に、次のあり得べきものを作り出していくことが大切ですね。
今回の事例を学習素材として次のあり得べきものを作り出していくことが大切ですね。
《ところでボランタリズム研究所はどんなことをしているのですか》
ボランティア活動やNPOを思想的、理念的に支えるボランタリズムには、主に1)行政や国家などからの独立と協働2)人間が本来持っている意志を重視すること(主意主義)―の2つがあります。こういった欧米の思想に日本やアジアの思想も加え、理論面から「市民社会」創造のお手伝いをしたい。その目的に向けた一つとして、研究誌「ボランタリズム研究」などの発刊を行っています。
おかもと えいいち
1931年生まれ、兵庫県佐用町出身。同志社大卒業。
大阪水上隣保館指導員の後、大阪キリスト教社会館で医療ソーシャルワーカー、児童館館長としてセツルメント運動に取り組む。大阪ボランティア協会に移り常務理事・事務局長、理事長を務める。59歳から聖カタリナ女子大、西南女学院大、流通科学大などで社会福祉原論、地域福祉論などを講義。75歳で大阪ボランティア協会に戻り、現在は同協会顧問兼ボランタリズム研究所長。