京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●この人と話そう
暮らしの「助けて」をお手伝い
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養成講座受講から9回の懇談会を経て生活支援サポーター「絆」の設立総会を迎えた。記念撮影に当たり笑顔を見せる代表の川嶋さん(前列右から二人目)=1月18日、東近江市永源寺高野町の「ゆうあいの家」 |
《永源寺地区は東近江市東部の山村で、密接なつながりが残っている地域という印象があります。なぜそのような活動が必要だと思ったのですか》
永源寺地区といっても、東部と中、西部では違いがあります。私の生まれた東部は文字通りの山村で、昔はもらい風呂をしたり、いろり端での会話や食べ物のやりとりなど濃密なつながりがありました。私も父が早く死んだせいで、近くの人から説教や忠告もされたものです。雪が深く厳しい土地で、支え合いがないと暮らしていけないのです。
《ところが近年はつながりが弱くなったのですか》
はい。原因は一言では言えませんが、核家族になり、もらい風呂の習慣も途絶えました。お葬式を家でしなくなったので昔ながらの料理が子や孫に引き継がれなくなりました。働く場所が乏しいうえ交通の便が不足し、若者の流出と過疎高齢化が進みました。中でも、「他人に迷惑をかけてしまうから」と気を使ってしまい言い出せない住民性もあります。そこで私たちは、困ったことがあれば「助けて」と気軽に口に出せることが必要だと考えます。
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《世話している人はたくさんいるのですか》
実績では16人ですが、亡くなった人もいるので現在継続してお世話しているのは14人です。檀家(だんか)の高齢化でお参りする人がなくなったお寺の奥さんの話し相手や、高齢で運転できなくなった女性を施設にいる子のところまで送迎するなど、サポーターが自分の時間を融通し合って交代で務めます。こちらもさまざまな場面で感動することが多いですね。
収集所へのごみ出し一つとっても、坂が多い土地なので高齢者には難しい現実があります。それを手伝うことは、同時に見守り活動にもなります。
《サポーターにとっても良い影響はありますか》
困っていそうな人がいても一人では声をかけにくいものですが、背後に「絆」という組織と仲間がいるとの思いから、積極的に声をかけるようになりました。月に一回、報告会をしますが、例えば「Aさんの家の時計が壊れてる」といった話を何人もの仲間が指摘して大笑いすることもあります。みんな「声をかけるのが楽しくなった」と言ってくれます。
《今後は「絆」の活動をどのようにしたいですか》
無理をしても続かないので、楽しくぼちぼちやっていきたいですね。ゆくゆくはこうした活動が東近江市全体、さらには滋賀県全体に広がっていけば、と願っています。
かわしま とみお
1947年、東近江市箕川町(旧滋賀県神崎郡永源寺町箕川)生まれ。
名古屋市の名城大農学部農学科遺伝育種学専攻卒業。当初は茶の栽培を志したが、やがて滋賀県造林公社に入り湖東出張所(旧永源寺町)を始め県内各地に勤務。山の検査や指導を行うなど現役時代は林業一筋に励む。退職後の2005年から09年まで永源寺公民館長。現在は永源寺福祉の会会長や民生委員児童委員も務めている。