ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
この人と話そう

補い合って暮らす社会へ
みんなが役割持ち、隔たりなく交流を

龍谷大学短期大学部教授
加藤博史さん(2013/08/13)


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ふれあい大学で行った演劇療法(京都市伏見区、龍谷大学)
《どんなきっかけで社会福祉の世界に入ったのですか》

 高校生の時、受験雑誌に京都市北区の知的障害者施設「白川学園」の脇田悦三学園長と同志社大の住谷悦二総長との対談が掲載されていました。私は、お二人の福祉に関する考え方と情熱に感動して、この道に進みたいと思いました。

《この対談が加藤先生の進路をも決めたということになるのでしょうか》

 当時、私は人生のあり方に悩んでいた時期でした。どう生きればいいのだろうか。賢いことが偉いことなのか。勉強できなかったら駄目なのか。そうではない、そんな社会は駄目なんだ、ということを感じ始めていました。そうした中でともに生きるという希望のような道が浮かび上がったのです。


かけがえない個性

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《大学時代は住谷先生のおられる同志社に進まれて福祉を勉強される一方、白川学園にはボランティアとして出入りされておられた》

 脇田先生は全国の知的障害児施設の会長もされており、日本初の知的障害児の幼稚園を創った人です。白川学園の運動会で脇田先生と走ったり、障害のある子どもたちによく遊んでもらいました。私は、そこで救われた、障害のある人たちに生きる力を与えてもらったとさえ思います。滋賀を中心に活動された糸賀一雄先生にも大きな影響を受けました。糸賀先生は「人間は、有用性や効率性を超えたところで生命の尊厳が発露される。例え、どんなに重い知的障害があっても、かけがえのない個性があり、自己実現を目指すことができる」と教えられました。そこに私は魅せられた。

《大学卒業後、大阪北部の精神科病院でソーシャルワーカーとして活躍された後、大学教員としての道を歩み始められた》

 私は、背負っている重荷の大きさで人を尊敬します。精神科病院に入院されている人たちは過酷な重荷を背負っておられました。ここで教わった人権を、学生や社会に伝えていきたいと思いました。

《ユニークな試みである、「ふれあい大学」もやっておられるのですね》

 これは龍谷大が毎年、40人の知的障害者を受け入れて、音楽療法や演劇療法などを通じて一般学生とともに学ぶという内容です。学生は単位としても認定されますし、障害者には学長印のある修了証書をお渡ししています。

《同大学の矯正保護センター長もされておられました》

 刑務所に入っている人の7割は窃盗と横領の罪です。出所しても帰る家のない人が6割を超えています。知能指数相当値が90未満の人は75%近くあり、中卒者が約半数を占めています。実は今ようやく、この人たちに福祉の施策が体系的に講じられるようになりつつあります。

《最近、高齢者の見守りについて民生委員・児童委員にアンケートをされました》

 地域でのつながりが薄れる中、孤立した人をいかにすれば防げるのかという視点などで調査しました。「高齢者の見守りと民生児童委員の活動研究会」の研究代表として取り組んだのですが、この調査で民生委員が地域福祉の要であることが確認できました。だが、壁や課題も多く見つかりました。プライバシー重視の考えが進み、民生委員の支援を必要としている人がいるにもかかわらず、その人の情報を得にくい状況にあること。また、孤立した人たちをしっかり見守るためにも、「行政、警察、消防、老人会などが情報交換の場を持つべきだ」などの意見も出ていました。


帰るところがある

《日本の社会福祉の現状をどうお考えでしょうか》

 介護が必要なら、施設へ。障害者なら施設へという考えになっていませんか。そうではなく、お年寄りや障害者らが交流しながら、補い合いながら暮らせる町づくりこそ求めるべきでしょう。帰るところがあるというのが大事です。その帰るところには人間的なつながりのある人がいるということが重要です。だが、今は帰れない人が多数おられる。今は誰もがしんどい社会になってます。だから、お年寄りも障害者も子どもも役割をもって隔たりなく交流していけるような地域社会の実現を目指すべきだと思います。


かとう・ひろし
1949年生まれ。74年同志社大大学院修士課程修了、博士(社会福祉学)。
精神科病院に14年間勤務の後、京都文教短期大学助教授などを経て98年から現職。京都光彩の会理事長、京都市障害者施策推進審議会会長。京都外国人高齢者・障害者生活支援ネットワーク・モア共同代表などを兼務。著書に「福祉とは何だろう」(編著・ミネルヴァ書房)、「司法福祉を学ぶ」(共編・ミネルヴァ書房)など。