ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
HOPE 乳がんとの闘い

生きる光が見えなくなった
(2015/05/18)

写真
検査結果を待つ3週間の間に気分転換で訪れたかやぶきの里(南丹市美山町)


桜に思う。
生きていることを喜び楽しみ
散りゆく時も凜とあらんと。

 2010年2月、何げなく触れた右胸にビー玉のようなしこりがあることに気がつきました。気にはなりながらも仕事を優先し、乳腺外来を受診したのは4月でした。触診の後に、マンモグラフィー検査と生検(針を刺して組織の一部採取)を受けました。検査結果を待つ3週間は、乳がんかもしれないという不安はありましたがインターネットで調べる事はありませんでした。大丈夫、そう思いたかったのです。ただ、調べていけば検査結果の意味がより理解できていたと思います。

 私と夫は、結果を聞きに病院へ行きました。診察室でなくカンファレンス室に通されたときに、少し嫌な予感がしました。先生は、結果用紙を私たちに示しながら「間違いなく硬癌(がん)です」と言われ説明が始まりました。専門用語なども多く意味がわかりませんでしたが「予後の悪いタイプです」と言われたときに、「がん=死」が頭に浮かび動揺をしました。大変なことになった、頑張らなくてはと思いました。「手術は5月末に。何か質問はありますか」と尋ねられました。私は体力をつけなければ、食べなくてはと思いましたので「京都で一番おいしい食事がでる病院はどこですか?」と聞きました。先生は少し沈黙されて「この病院ではありません」と答えられました。誠実に答えられた先生にフッと心が和んだのでしょう。間の抜けた質問をしたことに気づき、顔を見合わせて笑ってしまいました。今後の治療として、明日からホルモン薬を飲むこと、京都市内までPET検査を受けに行くこと、一カ月後に手術をする事が決まりました。

 病院から出ると雨が降っていました。私と夫は車に乗り込んでも無言でした。フロントガラスをぬらす雨を見つめながら夫が「がんを楽しめ」と言いました。私は「無理や」と心で叫びました。夫も気が動転していたのでしょう。「がんでも生きることを楽しんでほしい」と言いたかったようです。この言葉は、私のがん患者として生きる課題になっていくのですが時間が必要でした。

 入院・手術となると家族に黙っているわけにもいかず、告知から3日後に息子に話をしました。高校2年になっていましたので、命と友達を大切にしてほしいこと、何があっても見守っていると伝えました。話す私も黙って聞いている息子も涙があふれていました。よほど、予後が悪いという言葉にとらわれていたのでしょう。子どもへの遺言のようでした。

 私の身体は、飲み始めたホルモン薬の副作用が早くも出始め、何ともいえないだるさで朝は特に起き上がれなくなっていました。私は、会社へ病気のことを報告しました。会社からは、自己都合退職を勧められました。予後の見通しもわからず、復職できるのかどうか自信がありませんでしたので退職しました。会社に迷惑をかけてはいけないと即断でしたが様子を見ながら判断をしても良かったと思います。がんの告知を受けて、死を身近に感じ、家族を泣かせ、仕事も無くし、光はどこにも見えませんでした。

さくらい・ゆうこ
1958年、大阪府出身。2010年に乳がん告知を受け現在も闘病中。11年リレーフォーライフ(RFL)京都設立。12年アメリカ対がん協会インターナショナルヒーローズ・オブ・ホープ認定。Imaiki Cafe「わたぼうし」副代表・RFL京都・ピアサポーター活動中。亀岡市在住。