ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
聞こえないからチャレンジ人生

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

1歳で補聴器、言葉の教室へ
わずかな聴力、訓練で最大限

深田 麗美


 聴覚障害は厄介です。聞こえない人は外見では分かりにくいのです。そのため、かえって困ることもあります。例えば、後ろから呼ばれても聞こえません。無視されたと誤解を受けることもあります。

箱型の補聴器をしている1歳当時の深田さん。いつも母の手作りのかわいい補聴器ホルダーをぶら下げていた(1982年7月、京都市内の自宅)
 補聴器を付ければ聞こえると思われますが、補聴器はただ音を大きくするだけの器械なので周りがうるさいと雑音も大きくなり、肝心な声は何も分かりません。

 漢字の読み方を間違えて覚えていることもよくあります。目からの情報に頼っているので、私は恥ずかしいことに万博のことを最近まで「まんぱく」だと思い込んでいました。

 聴覚障害=手話だとほとんどの人が思っていますが、私は手話を知りません。口の動きを読み、補聴器で声も聞いて会話をしています。どうしてもわからない時は筆談をお願いします。また聴覚障がい者と一口に言っても聞こえの程度はそれぞれ、考え方も生活の仕方も千差万別です。

 私は生まれた時、体重が1900グラム、体温は34度で呼吸は止まっていました。心臓だけがかろうじて動いていたそうです。生まれてすぐ髄膜炎にかかり、その後聞こえなくなりました。1歳で補聴器を付け、小学校へ入学するまでの5年間は静岡の母と子の教室という言葉の教室へ通い、元ろう学校の先生に個人的に発音と発声の指導をしていただきました。

 聴力がかなり悪いので、補聴器を付けてから音の存在に気づくまで数カ月かかったそうです。ほんの少しだけ残っていた聞く力を最大限に引き出す訓練をして、補聴器を使いこなし、聞こえない割には普通に話せるようになりました。補聴器はメガネやコンタクトのように、付けたらすぐ聞こえるというものではありません。最初に声を出すまで、母は苦労をしたそうです。

 でも私はしんどい思いをした記憶はありません。楽しく遊びながら訓練するというのが静岡の教室での基本方針であり、その教えをうまく取り入れ、工夫してくれたのでしょう。ただ、私だけ訓練のため幼稚園を休んだり、遅れて行くということに不満はありました。静岡の教室では聞こえない友達と、体験したことを書いたノートを見せながら話したり、教室でのお稽古(訓練というよりお稽古という印象しかないので…)が終わった後、公園で遊んだり…といった楽しいことしか覚えていません。

 当時の母の苦労は、並大抵のことではなかったと思います。1歳から小学校入学まで週に1回、夜明け前に起きてお弁当を作り、オムツや哺乳瓶など重い荷物を持ち、ベビーカーに私を乗せ新幹線で静岡へ通っていました。アメリカのデフスクールの通信教育も受けていて、専門用語など単語から調べて訳すのが大変だったということです。普通なら途中でくじけるだろうに、最後までやり通してくれました。今の私があるのは周りの方々の協力はもちろんですが、ほとんどは母のおかげだと感謝しています。私は体が弱かったこともあり、丈夫にたくましく聞こえる人の中で共に育ち、みんなと仲良くできること、上手に話すよりも人間的に豊かで魅力のある人にというのが、両親の教育方針でした。


ふかだ・れみ 1980年生まれ、京都市出身。生後すぐ髄膜炎にかかり、その後聴覚を失う。静岡県の「母と子の教室」に通い発音や発声、口話を学ぶ。京都府立山城高から同志社大経済学部に進み、在学中の2003年にボランティア団体「京都リップル」を立ち上げた。現在、同大学経理課勤務のかたわら、京都リップル代表として映画のバリアフリー上映に参画。障害当事者として講演活動も行っている。