ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
聞こえないからチャレンジ人生

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

途方に暮れた大学の授業
障害への理解広げる場が大切

深田 麗美


 聞こえないので、勉強はどのようにしていたのかとよく聞かれます。小学校までは先生に恵まれ、口の動きも理解しやすく困ることはありませんでした。

 学校生活で特に印象に残っているのが、小学校時代の友達が私の発音が悪い時に「はっきり話して」と直接言ってくれたこと。おかげで私にとっては小学校入学後も、毎日が発音と発声のリハビリでした。

大学時代、京都リップルを立ち上げたころのミーティングで、さまざまな大学の学生たちと(2003年3月、京都市上京区の同志社大)
 入学前は発音もあいまいだったのに小学校での生活の中で鍛えられ、卒業するころには比べものにならないくらい発音も発声も上達したそうです。私はこのような遠慮のない人間関係が大切だと考えています。

 聴覚障害のある人にはよくあることですが、英語や国語が私も苦手でした。中学1年の時は、英語が悩みのタネになっていたことを覚えています。「日本語でも精いっぱいなのに、何で英語まで勉強せなあかんのや!」なんて思っていました。

 国語も大学の受験まで本当に苦労しました。特に人物の心情を表せというのが「そんなん作者にしか分からんことを…まして正解があるのか疑わしい」などと、当時は反発もしていました。今となっては、苦労したことが大学や社会に出てからのレポートの作成にもつながっていき、こうして報われていくんだな、と実感しています。

 では、大学では悠々と大学生活を送っていたのかというと、また問題がありました。大学の授業は、小中高とはすべてが違っていました。授業は大教室で行われることがほとんど。マイクを使って、テキストも(ひどい時は教科書さえ)ないまま授業が行われました。聞こえない自分にとっては、手がかりもない状況が多かったのです。

 小中高は教科書や板書に沿って進められるので、参考書で勉強すればそれで済みましたが、大学では先生の話していることが教科書であり、どうすれば授業が理解できるのか途方に暮れました。

 幸い、同志社大学では私が入学したころに障がい学生支援制度ができ、先生のおっしゃることをノートに書くノートテイク、パソコン(PC)に打つPC通訳をしていただきました。自分からお願いすれば配慮していただける制度があったのは、本当にうれしいことでした。テニスサークルの先輩や仲間にも助けられました。

 障がい者といってもさまざまです。耳が聞こえない、手足が不自由、目が見えない…と、いろいろな障害を持っている人がいます。そして同じ障害であっても程度はそれぞれ違い、サポートの仕方もそれぞれです。でも障害があることを除けば、みんな同じ「人間」です。

 けれど今の日本では障害のある人が生活したり、大学へ通うには多くの問題があります。

 このような問題をなくすには、できるだけたくさんの人が実際に障害のある人に出会い、共に学ぶ機会をつくること、そして障害のある人について理解を広め、さりげなく助けられるようになることが重要だと考え、この思いに共感してくれた学生たちと一緒に、大学3回生の時に「京都リップル」を立ち上げました。


ふかだ・れみ 1980年生まれ、京都市出身。生後すぐ髄膜炎にかかり、その後聴覚を失う。静岡県の「母と子の教室」に通い発音や発声、口話を学ぶ。京都府立山城高から同志社大経済学部に進み、在学中の2003年にボランティア団体「京都リップル」を立ち上げた。現在、同大学経理課勤務のかたわら、京都リップル代表として映画のバリアフリー上映に参画。障害当事者として講演活動も行っている。