ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
夢はかなう〜水泳と私

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

A 退院、高校復学

友人らの支えで卒業

北村 友里さん



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復学後の3月に友達と妹と一緒に東京ディズニーランドに遊びに行った北村友里さん=本人提供
 高校2年の6月に緊急入院した私の闘病生活は、4カ月に及びました。

 入院中は、膠芽腫(こうがしゅ)のコバルト治療の副作用で髪は全て抜け、食べては吐いての繰り返しで、どこに行くにも洗面器を必ず持ち歩いていました。

 初めは病院食を食べていたのですが、食べた分の80〜90%吐いていたので、食べたいものを食べて体力をつけることが治療でした。病院食は母が食べ、昼は母に買って来てもらい、夜は仕事で帰宅した母に代わって祖母にお弁当を持って来てもらっていました。幸いにも食欲はあったので、右腕に点滴をしていても、利き手ではない左手でご飯を食べていました。

 しかし、体重は減っていく一方で、治療がない土日は、外泊許可をもらい自宅に帰っていました。外泊の条件は、栄養価の高い食物をたくさん食べることでした。治療の影響で白血球の数値が低く、極端に低くない時だけ、マスクをして頭にバンダナを巻いて帰宅していました。飲食店を経営していた親の代わりに、土曜日は水泳の友達と姉がタクシーで病院まで迎えに来て、一緒に家で夕食を食べてくれていました。家でも食べては吐いての繰り返しでしたが、病院で食べるよりおいしかったし、楽しかったです。

 9月下旬にコバルト治療が終了し、その3日後に退院しました。体重は、入院時から約20キログラム減り、筋力も落ちていました。

 退院後すぐに紫野高校(京都市北区)に復学したかったのですが、6月から9月末までの入院で授業についていけないと思い、休学することにしました。

 休学中は、注射と白血球数の確認のための検査で通院していました。また、京都踏水会(左京区)に頼み、浅いプールを借りて泳いでみましたが、小脳に腫瘍があったため平衡感覚の障害が残り、真っすぐ泳ぐことが難しかったことを今でも覚えています。

 翌年に高校に復帰しましたが、2年生は月に1回通院のために学校を休んでいました。

 休んだ次の日は、友人のノートを写させてもらい、授業を補うことができたので、一度も赤点を取ることはなく、3年に進級することができました。

 泳ぐ感覚が戻ってきたので、高校に復学した2年の夏には、京都踏水会の夏期講習の指導員にも復帰し、指導員の講習にも週1回行っていました。

 2年の3月には幼なじみの友達と妹と3人で東京ディズニーランドや新宿、原宿での買い物を楽しみました。

 3年になると体育の授業にも対応できるまで体力も回復しました。

 学園祭の仮装行列は友達とお揃いの衣装を作りました。当日は私が歩ききれるか心配で、私の後ろを担任の先生が歩いてくれていました。

 1998年3月、2年間を受け持ってくれた担任の先生をはじめ、主治医、家族、友人らのおかげで高校を4年間で卒業することができました。

 私は、膠芽腫の手術後に車いす生活になっていた可能性が高かったことを親から聞かされ、障害のある人の水泳に関わる仕事に就きたいと、障害者スポーツを学べる専門学校に進学することにしました。

      ◇

 原則毎月第3月曜に掲載します。

きたむら・ゆり
1978年京都市生まれ。3歳で水泳を始め16歳で膠芽腫を発症。19歳の時に治療の後遺症で脊髄損傷となり、障害者として水泳を再開。アテネパラリンピック6位・北京パラ7位。現在も大会に出場し、近畿身体障がい者水泳連盟の理事として大会運営に携わる。