ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
夢はかなう〜水泳と私

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

B 進学、突然の車いす生活

退院後のプール、扉開く


北村 友里さん



写真
下肢装具を付け平行棒を使って歩く練習をする北村友里さん=本人提供写真
 高校に復学して2年目の1998年3月、先生や主治医、家族、友人らのおかげで、4年間で紫野高校(京都市北区)を卒業できました。

 障害者スポーツに関わる仕事がしたかったので、4月に専門学校に入学して講義や実技、7月には水泳実習にも行きました。しかし、実習から帰ってきて、少しずつ足が重く歩きにくくなっていきました。整骨院でみてもらったら歩けば治るとのことで、学校を休み、歩きましたが、長い距離が歩きにくく、途中で座って休む状態でした。東京に行くなどして他の療法も試しましたが改善しませんでした。

 高校時代に膠芽腫(こうがしゅ)の手術を受けた病院でも、原因はわかりませんでした。様子をみようと8月下旬に入院、高圧酸素治療を受けました。ベッドの上で専門学校の前期の試験勉強をしていた10月、臀部(でんぶ)に褥瘡(じょくそう)(床擦れ)ができているのを母が見つけました。皮膚と尾骨の間の肉が無くなっていたのです。

 膠芽腫のコバルト治療の影響で神経が損傷し、胸髄10番( へそ辺り)から下の感覚が全く無い状態、つまり脊髄損傷と診断されました。車いす生活が避けられないことがわかったのです。

 入院計画は、車いす生活を送るため、社会復帰を目指して、リハビリと褥瘡の治療を行うことになりました。

 脊髄損傷の専門病棟がある大阪府枚方市の病院に12月下旬に転院しました。洗濯や院内での買い物などの身の回りのことは全て自分でやりました。リハビリと褥瘡の治療の毎日。夜間には病院の体育館で車いすバスケットボールもやりました。

 退院は、下肢装具を付けて、両手足を伸ばした状態での四足歩行で体育館からリハビリ室までの約30bを進むことができることが条件でした。翌年春に達成し、退院許可が出ました。

 退院日が決まってからは、退院が近い患者数人で外出訓練を行いました。病院から最寄り駅まで車いすで行き、エスカレーターに乗る練習。運転免許を取るために車いすから運転席に移動することもリハビリの一つでした。

 そして5月25日に退院しました。褥瘡も近所の病院で毎日ガーゼ交換して退院後1カ月で完治しました。

 褥瘡の完治後、すぐに京都市障害者スポーツセンター(左京区)に行って泳いでみました。泳ぎ方は体が覚えていて、腕を回して動かせる上半身だけでクロールを泳いでみました。前には進むのですが、プールの底に足が着くくらい下がり、妹が潜り足を上げてもらって泳ぎました。

 でも、車いすなしでは移動できない私が、プールに入ると自分だけの力で前に進むことができることがすごくうれしかったです。やっぱり私は水泳が好きなのだと実感しました。それから週2回、母にセンターに連れて行ってもらいました。

 泳ぐことの楽しさを知った私は、障害者として新しい扉を開くことになるのです。



 原則毎月第3月曜に掲載します。

きたむら・ゆり
1978年京都市生まれ。3歳で水泳を始め16歳で膠芽腫を発症。19歳の時に治療の後遺症で脊髄損傷となり、障害者として水泳を再開。アテネパラリンピック6位・北京パラ7位。現在も大会に出場し、近畿身体障がい者水泳連盟の理事として大会運営に携わる。