京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●夢はかなう〜水泳と私
「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。
D アテネパラに出場6位に悔し涙、次へ決意北村 友里さん
2002年の世界選手権出場後に私は、アテネパラリンピックで確実に入賞するなら、今の練習では目標タイムを達成することができないと実感しました。朝早くからスイミングスクールを使用させてもらい、練習することもありました。
体温調節機能に障害があり、練習中は上がった体温を下げるため、頭から氷水を何度もかけてもらって体温を下げながら泳いでいました。脈拍は1分間に200回にまで上がるくらいハードな練習をしていました。 しかし、03年7月のカナダオープンは、200メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得したものの100メートル平泳ぎのタイムは2分19秒01で9位でした。決勝にも残れず、翌年に控えたアテネパラリンピックに出場できるか不安でした。 帰国後、後半失速しない泳ぎに加えて前半のスピードも出せるようなレース展開を目指して、さらにハードな練習メニューを作成してもらいました。このパラリンピックに出場したい一心で選考会までの7カ月間、厳しい練習を乗り切りました。 04年3月の選考会の10日前に42度の高熱を出し、早朝に病院へ行き「腎盂(じんう)腎炎」と診断されました。24時間点滴をし、たくさんの水分を取らないと選考会に間に合わないと医師から言われ、1週間入院をしました。退院できたのは選考会の3日前でした。 退院しても練習は一度もできず、群馬県の選考会へ行きました。10日間泳げず、当日もウオーミングアップだけで選考レースにのぞみました。何とか記録が出せ、アテネパラリンピック出場が内定し、ほっとしました。 出場が決まって、合宿は近畿で行うことが多く、神戸市北区の合宿所に泊まり、自衛隊阪神基地のプールまでの往復を自分で車を運転して行きました。ハードな練習後の疲れた状態で、合宿所まで運転して帰らないといけなかったのは、正直しんどかったです。5月の連休には、朝7時から合宿所のプールで2000メートル、昼からは自衛隊のプールで練習。1日約5000〜6000メートル。それが1週間近く続きました。 04年9月、アテネパラリンピックに出発。選手村の自室に着いてすぐ、本番のレースまでの練習スケジュールを作成しました。そして、翌日からプールでの練習が始まりました。 両親や親戚、升田哲雄コーチ、スイミングスクールの仲間たちが応援に来てくれました。決勝の観客席は満席で、今まで出場した国際大会とは全く違う熱気に包まれていました。 100メートル平泳ぎの結果は6位、2分7秒64。1年で約10秒タイムを縮めることはできましたが、世界のレベルの高さを痛感し、応援に来てくれていたコーチの前で悔しさが込み上げて泣きました。 帰国後、今以上の練習を積まないと、今の記録では4年後の北京パラリンピックの出場も難しいと実感しました。 4年後の北京パラに向けてさらに練習を重ねて、出場を目指すことを決意しました。 原則毎月第3月曜に掲載します。
きたむら・ゆり
1978年京都市生まれ。3歳で水泳を始め16歳で膠芽腫を発症。19歳の時に治療の後遺症で脊髄損傷となり、障害者として水泳を再開。アテネパラリンピック6位・北京パラ7位。現在も大会に出場し、近畿身体障がい者水泳連盟の理事として大会運営に携わる。
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