ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
夢はかなう〜水泳と私

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

E 支えてくれたもの

諦めず努力続ける心


北村 友里さん



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北京パラリンピックの開会式で京都市障害者スポーツセンター職員と現地ボランティアと記念撮影する北村友里さん(中央)
 アテネパラリンピック(2004年)は、100メートル平泳ぎで6位に入賞しましたが、世界レベルの高さを痛感した大会でもありました。4年後の北京パラの目標タイムを2分2秒台にして、再始動しました。

 2年後の06年12月、南アフリカ・ダーバンでの世界選手権で2分3秒41の記録を出し、夢に一歩近づいたと思いました。同時に、北京パラでは2分を切りたいと思いました。

 帰国後、30歳を前に身体的自立はほぼできていたので、経済的な自立を目指して、練習の合間に就職活動を始めました。それと同時期にパソコンのスキルを上げるために、パソコン教室に通い、資格を取得しました。

 北京パラが開催される08年4月から人材派遣会社で勤務。午前9時から午後4時まで働き、週3〜4日、終業後そのままスイミングスクールに行き、練習しました。

 北京パラ出場を決めた国内選考会で、記録は4年前に比べて5秒縮めることができました。しかし、世界ランキングは7位に落ちていました。北京パラでは、2分切りしないと決勝に残れないと思いました。

 北京入りして、練習でのタイムは1分59秒台。予選では顔なじみの選手もいて、適度な緊張でレースに臨めました。2分2秒68のベストタイム。しかし、決勝では、2分を切らなければと焦り、2分3秒41。予選からタイムを落として7位でした。応援に来てくれていた家族や会社の方に最高のパフォーマンスを見せられなかったことが心残りです。

 その後、10年12月の中国・広州アジアパラでは、金メダル確実といわれましたが、招集所で顔が熱く手が冷たい状態(冷えのぼせ)になり、描いていたレースができず2位でした。帰国後、母に聞くと12月16日の招集時間に祖母が亡くなっていたのです。今考えると、祖母は私に何か伝えたかったのかもしれません。

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北京パラでベストタイムを出した100メートル平泳ぎのレース =いずれも本人提供
 14年の韓国・仁川アジアパラは、水泳チームの女子キャプテンを任されました。北京パラからタイムは10秒落ちましたが、何とか3位で日本のメダル獲得に貢献することができました。

 いつも私を支えてくれたのは水泳でした。水泳で体力があったから治療に耐えることができました。障害者になっても、水泳でパラリンピックに出たいという思いから、ハードな練習に耐え、パラリンピック最高6位という結果を出すことができました。悔いはないとは言えませんが、「諦めずに目標に向かって努力すれば夢はかなう」ことを実現できたと思っています。

 昨年、京都市から「京都スポーツの殿堂」表彰をいただきました。今までやってきたことが間違いではなく、頑張ってきたご褒美だと思っています。

 今後は、講演会などを通じて「何でもいいので好きなことを見つけてほしい」、「諦めずに努力すれば夢はかなう」と未来を担う子どもたちに伝えていきたいです。

      ◇

 北村さんの連載は今回で終わります。

きたむら・ゆり
1978年京都市生まれ。3歳で水泳を始め16歳で膠芽腫を発症。19歳の時に治療の後遺症で脊髄損傷となり、障害者として水泳を再開。アテネパラリンピック6位・北京パラ7位。現在も大会に出場し、近畿身体障がい者水泳連盟の理事として大会運営に携わる。