ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
結縁 ひきこもりから社会へ(4)
  • 就職し自立へ(下)
  • 希望の芽育み、元に戻る

     

    福島 美枝子さん



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    ちらしの折り込み作業をする若者たち
     ひきこもりは、どんな人にとっても容易に解決できる問題ではない。解決までには大変なエネルギーと長い時間が必要なケースも多い。だが、家族をはじめとする周囲と本人との間に互いに信じ合い、思い合う心さえあれば、道は必ず開けると思う。

     「これ配るの何時に終わる?」。明君が優次君に聞いている。「2時くらいになるかな」と優次君。配達のバイトが終わると、二人は肩を並べていつものようにゲームを楽しむことになる。

     明君も、優次君も何年か前までは一人部屋にこもって、ゲーム三昧の生活だった。心は閉じたままだった。しかし、今では、自分で働き、そのお金でゲームソフトを買い、ゲームをするときも隣に友がいる。

     「今度の金曜日は、みんなでスポーツをしないか」と明君が言いだした。恒河沙(ごうがしゃ)はこのところ、メンバー全員が働きだしたため、一時は熱中していたフットサルや野球などのスポーツを楽しむ時間がなくなっていた。スポーツに目が向き出したということは、仕事に余裕ができ始めた印だ。

     「ひきこもり生活と今とはどう違う?」の問いに、博君が答えた。「元に戻っただけ」。そう言った博君の背中のシャツは汗でびしょ濡れだった。博君は新聞を配り終え恒河沙に帰って来たところだった。

     恒河沙を通じて、さまざまな人のつながりができ、何かが生まれた。そこから、心の中に生きづらい思いを抱え、絶望を口に出すことさえできないでいた若者たちに希望が見えてきた。私たち大人は、説教したり、何かを一方的に押し付けるのではなく、若者たちの中の希望の芽を育てるために何をすればよいのだろうか。

     ある日の恒河沙の勉強会で、「一の矢は受けても、二の矢は受けない」というお釈迦さまの教えを誰かが口にし、そのことについてみんなで話し合った。

     「一の矢」とは、外から突き刺さる矢のことをいう。何かの事件や事故、つまずきによって受ける衝撃や被害のことだ。未熟で傷つきやすい子どもたちにとっては、学校も家庭も、ブンブン矢が飛んで来る戦場みたいに物騒な場所と言えなくもない。

     だが、これは、生きていれば避けられない出来事だろう。問題は、「一の矢」を受けた後、「二の矢」をかわすことができるかどうかだ。「一の矢」を受けたことで心が折れ、自分の生きるエネルギーまでなえさせてしまう状態を作らないこと。不登校になることは「一の矢」、親も子も自分たちを?普通?と言われる子たちと比較し、焦ったり自らを責めたりするのが「二の矢」だ。さらに、この後に、親や社会に対して心を閉ざしてしま?たり攻撃的にな?たりする「三の矢」がある。

     静香さんのお母さんが言った、「『二の矢』を先に解決すると、『一の矢』にたどり着く。まず、人と比べないこと。家族が見栄や世間体を気にすることをやめると、むき出しの自分たちの状態が見えてくるよね」。その場のみなが「心当たりがある」と言うように、うなづいた。

     子どもが自分の部屋にこもってしまったとき、ある母親がこう言ったという話を思い出した。  「次郎ちゃん、あなたはそれでいいのよ。お母さんは、ここにいるから」

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    1952年長崎県生まれ。99年まで大津市の中学校に勤務。同年に退職後、京都、滋賀において青少年の自立支援のための活動を行う。現在、NPO法人恒河沙などの理事長。著書「本音を聞く力」(角川書店)。精神保健福祉士。安養寺坊守。