ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

「バンク」登録へ力の限り

滋賀骨髄献血の和を広げる会代表、陶芸家
神山 清子さん




長男賢一さんの遺作を手にする神山清子さん(甲賀市信楽町勅使の自宅)
 自分と同じ陶芸の道を歩みだした長男賢一が慢性骨髄性白血病に侵されたことが、きっかけとなり、骨髄バンクの登録普及運動に取り組み始めました。代表を務める「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の活動を昨夏から見直し、さらなる登録普及に向け、動きだしています。「骨髄移植を待つ患者さんに一刻も早く、実現できるように手助けできれば」との思いでいっぱいです。

 幼少時代は、父親の仕事の都合で九州、近畿などの各地を転々としました。戦後、11歳の時、陶芸の里・信楽に来ました。地元の中学校を卒業して、和洋裁学校へ進みました。当時、美術系の大学に進学したいと思っていましたが、父親の許しがもらえませんでした。和洋裁学校を終え、街中に陶器があふれていたことから、陶器の絵付け助手として働き始めました。これが陶芸との出会いとなります。その後、陶器会社に入社して、絵付けの仕事を続けていきます。

 27歳で自宅を工房にして独立、作陶に入ります。人にまねできない作品に挑戦しました。工房近くの古代穴窯から出土したすり鉢やつぼに魅せられ、ヒントを得て試行錯誤の末に、独自の焼成方法で「信楽自然釉」作品を生み出します。信楽の土を用い、釉薬(ゆうやく)は一滴もかけず、窯焚(た)きはまきを使い2週間以上にも及びます。

 5、6年かけてやっとの思いでたどり着いた作品は、釉薬をかけていないにもかかわらず、緑、白、赤、黄色の不思議な発色が起こり、迫力に満ちていました。この「清子オリジナル」である「寸越窯(ずんごえがま)」で、陶芸家の地歩を固めました。

 長男賢一は子どものころから窯焚きを手伝うなど、母親の姿を見続けてきて、自然に陶芸の道に進みました。ところが、賢一が29歳の時、慢性骨髄性白血病で倒れました。どうにか救いたいとの一心からドナー(骨髄提供者)探しに奔走しますが、2年後に病状が悪化して亡くなりました。当時は、まだ「骨髄バンク」はありません。陶芸家としての生き方と息子への愛情は映画化されました。

 ドナー探しを通して、骨髄移植を待つ患者が多くいることを知りました。賢一のためだけでなく、自分たちの活動が「土台」になればいいとの思いもあり、骨髄バンク運動を全国に広げていきました。

 現在、iPS細胞(人工多能性幹細胞)などを使った新しい医療に期待しています。こうした治療方法が確立、普及されるまで「私たちは頑張るしかない」と骨髄バンク登録を献血会場などで呼び掛けています。


こうやま・きよこ
1936年長崎県佐世保市生まれ。和洋裁学校卒業。63年から本格的な作陶活動。66年の滋賀県展をはじめ、その後、数々の展覧会に入選。75年、「信楽自然釉」を発表。スペインや台湾などで個展を開くほか、海外の展覧会にも出展多数。