ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

困っている人 支援し共感

認知症カフェ「けやきの家」代表

野々下 靖子さん



カフェは1回2時間で参加料は誰でも200円。合唱やダンス、軽体操もある。折り紙作りを笑顔で見守る野々下さん(中央)
 向日町(現・向日市)で開業した小児科と内科、精神科の医院を長岡京市の今の場所に移して44年がたちます。自ら課した「定年80歳」に達した一昨年春、医院を閉め、半年後に同じ建物で「けやきの家」を始めました。

 長く認知症の人を診てきて、初期のケアが不十分と感じていました。発症してもまだ維持されている能力を発揮する場がありません。能力を引き出し、不安を減らして生きがいを見いだせる環境を整えれば、進行を遅らせ予防にもつながる。「けやきの家」には、そんな意図が込められています。

 カフェの開催は第一、第三水曜日の月2回。通って来る方は10人以上あり、家族や地域の住民、保健師、音楽療法士さんらのボランティアで支えられています。認知症でも、やはりみなさん隠れた能力を持ち、重度の人が歌やダンスの達人だったりするのです。診療室では見られない一面で、驚かされました。

 カフェの形態に、厳しい規定はありません。ただ、底に流れる福祉の考え方は、以前から胸の内にありました。「人々が自分のできることを少しずつでも出して、困っている人を支援し共感する」。開業当初に体験を通じて得た私の信念です。

 私は高校を出て西京大(京都府立大の前身)に進学した当時は、福祉の道を志していました。父は外科医ですが、私は医師になる気はありません。ところが、ベテラン医師の祖父に説得されたのです。「福祉志望は社会に奉仕したいからだろう。医師になって奉仕すればよい」。進路変更を決断し医大を目指すために、大慌てで祖父からドイツ語の特訓を受けました。

 医大の助手を辞めて開いた向日町の医院は、新興住宅地の7坪の自宅でした。駆け出しの私を、近所の主婦たちが応援してくれました。私は出産したばかり。診療で、おむつの洗濯やミルクまですぐに手が回らない。「任せて」と、代わる代わるに支えてくださった。ご近所の物干し場でうちのおしめが旗めいている光景を今でも忘れません。

 「人々が自分のできることを少しずつでも出して、困っている人を支援し共感する」。これこそ、将来の福祉の形だと、その時に直感しました。

 認知症はまだ一般の理解が進まず、家族が患者さんを隠したがる空気も残っています。私が乙訓地域で「きずなの会」や「介護家族の会」を結成したのは、病気やケアについて誰でも学べるようにと、考えたからです。

 「けやきの家」は、家族や地域の人が来て、気軽に話し合える場にしています。賛助会員制度があり、会員ボランティアでの参加は大歓迎です。ここで経験を積んだ人たちが将来、他所で小さなカフェを開いていけば、助かる人がもっと増えるはず。支援の輪が広がるよう、私ももうひとがんばりするつもりです。

ののした・やすこ
1935年、京都市生まれ。関西医大卒。
68年開業。73年から長岡京市で診療の傍ら、認知症予防や介護の研究会、学習会を組織。95年、乙訓医師会などと協力して高齢者、障害者向けに保健・医療・介護のデータを一冊にまとめる携帯型の「在宅療養手帳」を開発して広く普及させた。02年、森本医療功労賞受賞。