福祉ボランティアに携わるようになって25年がたちました。向日市の点訳講座に応募したのが最初で、続けて要約筆記と高齢者・障害者ケアのサークルに参加。昨年からは新たに、視覚障害の人向けに向日市の広報紙を朗読、録音して届ける音訳ボランティアにも加えていただきました。
「どのボランティアも中途半端にしない」と心がけ、苦しい時期もありました。一方で、活動を通じ広範な人たちとつながりが生まれ、「どんな人とも心を通じ合って話ができるよう鍛えられた」と自負しています。
北海道旭川で7歳まで育った私は、国語教師だった父が京都府立桂高校に転じ、一家で向日町(当時)に移りました。文芸の才があった父の影響を強く受けて育ち「漢字を勉強しなさい」と教えられたのが、現在の要約筆記につながったと感じています。
福祉系の大学を出て大手電機メーカーに就職後は結婚、出産を経て向日市に帰り、手芸や刺しゅうの心得を生かし洋裁学校などに勤めました。娘を大学に進学させたころに出会ったのが、市の点訳講座案内だったのです。1994年6月から講座を受け、9月には市社会福祉協議会の要約筆記講座も受講。ボランティア活動を始めたのは要約筆記が先でした。
要約筆記は、難聴や中途失聴の人たちに講演や話の内容をその場で文字にして伝えます。多数の会場では、私たちはスクリーンに手書き文字を映し出す装置「OHC」を使います。人が話す言葉を追いかけると通常、文字化できるのは約20%。要点を捉え「速く正しく読みやすく」の3原則を守って書き映すのは至難の業です。
日ごろ、勉強会・研修会を欠かさず、修練を積まないと伝わる要約筆記はできません。難聴の人がイベントに要員として参加される時、一緒に動きながら指示や連絡を紙に書いて示す「ノートテイク」もよく行います。
点訳は今でこそ、パソコン点訳が普及しましたが、私が始めた当時は、針状の点筆を使って手打ちするのが主流でした。習熟してきた2007年、自宅を全焼する火事に遭い、やむなく中断しました。出火原因は不明。ショックと事後処理で心身ともに疲れ果てた時、支えてくれたのはボランティア仲間や要約筆記で知り合った難聴の人たちでした。向日市を離れなかったのも彼らの励ましがあったから。ボランティア活動によって自分が救われたのです。
高齢者、障害のある人の散歩介助や話し相手になるケアのサークルは、両親の介護に備えて、95年の設立時から参加しました。昼間独居のお宅、デイサービス施設でも楽しみに待っていてくださる人が多く、要約筆記を含め体が続く限り続けるつもりです。
災害地救援も経験しましたが、ボランティアに「してあげている」は禁句です。思い違いはいけません。いつか、何らかの形で自分も助けられるのですから。