ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
支え合う絆 〜 高次能機能障害の夫と

「ともに生きる」をテーマにした福祉コラムです。

  1. 私と娘の介護の始まり

身体は完治したものの

福崎 保子さん



 「高次脳機能障害」という聞き慣れない言葉を耳にしたのは10年前でした。後に身体をコントロールしている脳の大切さをあらためて実感することになりました。


長女を囲み実家で食事をとる福崎さん親子(本人提供)
 10年前、自宅からわずか1分の交差点で乗用車が主人のバイクに衝突し、頭部を強打し、救急病院に搬送されました。脳挫傷、顔面多発性骨、右腕骨折、意識不明のため、そのまま入院となりました。深夜に意識を回復した主人は、いろいろと話のかみ合わない言葉を発し、不可思議な行動を取りました。事故のショックによる一時的な言動や行動だと、たかをくくっていました。それだけにMRIの診断結果に私も娘もショックでした。

 主治医「頭部を強打した時に脳内に2カ所、傷が残りました」

 私「手術で治りますか?」

 主治医「脳腫瘍のように取り除けるものではないので、一生治りません」

 「一生治らない」という言葉だけが私の頭にリフレインしました。でも、そんな悪夢のような宣告を受けながらも、リハビリでいつかは回復してくれると信じました。

 脳を損傷した主人は事故で大けがをしている認識がなく、私と娘は病室に泊まり、5分おきに「家へ帰る」「仕事に行く」と言い点滴を引き抜きベッドから起き上がる主人を交代で見張らねばなりませんでした。主人の闘病生活と私と娘の介護の始まりでした。

 あごから下の骨折は口腔(こうくう)外科での手術が必要で、救急病院から転院しました。手術は10時間におよび、さらに一カ月の入院となりました。顔に痛々しい傷痕が残ったものの、もともと頑健な主人は右腕の骨折も完治し、周囲が驚くほどの回復力で見た目は健康体になりました。身体が完治してからが、本当の意味での介護の始まりだったのかもしれません。

 身体が回復した主人は昼夜問わず病室を抜け出したり、他の患者さんに迷惑をかけるので個室に移され、また脳神経外科の病棟へ移った時も他の患者さん達からクレームが出て、居づらくなりました。私も娘も主人を自宅で介護する知識も自信もなく、脳の後遺症のリハビリ専門病院を探し、転院しました。

 その時に主治医から「高次脳機能障害」という言葉を初めて耳にしました。当時はまだ情報も少なく、あまり周知されておらず、医学書やインターネットで検索しました。全国で30万人〜50万人と言われ、脳の後遺症とひとくくりにいえども種類も多く、脳のパーツにより働きが違うため損傷箇所で症状が変わると言われています。主人の場合は主に理性をコントロールする前頭葉の損傷で、自分の本能のままに行動し、他人の迷惑を考えない行動をしていたと考えられました。

 主人は何度も転院し数々の騒動で周囲や家族を巻き込み,私たちは「高次脳機能障害」と向き合うことになりました。


ふくざき・やすこ
1961年大阪生まれ。83年、天理大学外国語学部卒業。2006年に夫が交通事故後、高次脳機能障害となる。介護の傍ら、長女と整体とエステ店の経営者となる。滋賀県在住。55歳。