京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
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●虐待越えて
大人の心を助けたい
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「もう、あかん…」
死ぬかと思った瞬間、不思議なんですが、「これで、お父ちゃんはもう虐待しなくていいんや…」。ただ素直にそう感じました。
私は、小学校1年生から中学校2年生までの7年間、虐待を受けました。もともと、優しかった父でしたが、再婚と同時に少しずつ人相が変わっていきました。年子の私たち三兄妹は理不尽に殴られる痛みよりもどんどん変化していく父の顔を、そして殴る姿を見ることが何よりも辛かった。
7年間の間に、私は二度命を落としかけました。実の父親から殺されかかった私ですが、それでも優しかったあの父にいつか必ず戻ってくれることだけを願い、まわりの大人たちにも言わずにただひたすら耐えたのです。
私は現在「虐待根絶」を願い全国各地で講演活動をさせて頂いております。虐待によって死にかけた私は「虐待する大人の心を助ける」という活動に力を注いでいます。子どもの力では抜け出せない虐待という生き地獄。子どもの頃、毎日心の中で「私じゃなく、お父ちゃんの心をなんとかしてよ!誰か助けてよ!」と叫んでいました。子どもを助けるという事は、もうすでに「事」が起こってしまっています。理不尽な暴力や暴言をあまりにも長く続けていくと、自分の力では止められなくなってくるのです。「さっきはごめんな…」と言えなかったために「何やその目は!」と殴ってしまう。今思えば、その時点で大人と子どもが逆転してしまったような感じでした。
父からは肉体的暴力、そして継母からは精神的暴力を受け続けました。毎日、毎日…。金曜日のお昼に学校で給食を食べたら、日曜日のお昼まで食事を抜かれる。日曜日の夜になると、わざと腐らせておいた保温ジャーに入った黄色く、そして強烈な匂(にお)いのご飯をえずきながらも食べさせられました。叩(たた)く、つねるは当たり前で、殴られる際の靴べらもプラスチック製からステンレス製に変わっていく。素っ裸にされ、アイロンで全身を炙(あぶ)られた時には、「絶対に肌には直接つけられない」と分かってはいるのに、普段衣服で隠れている部分の皮膚を炙られると、全身を流れる血液がギューと詰まるような感覚で、悲しいとか辛いとかいうレベルではない感情になり、心が凍りつくのです。
私は、1972年兵庫県神戸市で生まれました。父と母が一緒にいる姿はあまり見たことがなく、すれ違いだったけど、家にいる時には私たち子どもにはとても優しく、母はいつも仕事へ出る前には思いっきり抱きしめてほっぺにチューをしてくれました。父は毎晩寝る前に、順番に膝に乗せてくれ「妙子は何でこんなにぶちゃいくでかわいいんやろ」と言って頭をなでてくれました。そんな両親が離婚して、私たちは父親に引き取られました。あの日から私の人生は狂いだしたのかもしれません。