ともに生きる・福祉のページ
京都新聞掲載「ともに生きる」「福祉のページ」の記事をネット上で紹介するコーナーです。
虐待越えて

バラバラに壊れそうな心
転校先で見つけた友情

島田 妙子


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 「これで死ぬ…」

 小学校3年生の時、風呂に沈められ、窒息死しそうになりました。父は継母に向かって「もうこれで気が済んだやろ」と吐き捨てるように叫びました。その言葉を聞いた瞬間、私は「もう、これでお父ちゃんを嫌いになれる」と思いました。

 わが家では自由に発言する事も、笑う事も、もちろん泣く事も許されていませんでした。でも心の中で何度も何度も叫んでいました。「大人なんか汚いやつしかいない」と。どうあがいても、子どもには力がなくて逃げ出す事もできません。お父ちゃんを憎む事で乗り切るしかなかったんだと思います。ただひたすら「早く大人になってこの家を出て行くんや」と。でも、早く大人になれる訳ではありません(笑)。私は「大人なんて絶対に信用しない」という気持ちを持つ無機質な子どもだったと思います。

 その頃の父や継母さんの心は、完全に崩壊していたのだと今になって思います。お酒にギャンブル、揚げ句に借金。私や兄は、雑居ビルの2階にある消費者金融に返済に行かされました。二人がパチンコに出かけたら、「このまま帰ってこなかったらいいのに」と夢や妄想で何度も二人を殺しました。

 すぐ上の小兄は修学旅行の出発の当日、布団ごとロープでぐるぐる巻きにされ旅行にいかせてもらえなかったのです。修学旅行費用のわずかばかりの返還金のために。暴力はもちろんイヤだけど、小兄の大切な大切な思い出まで奪うなんて…。

 大人不信の感情がピークに達していた頃、神戸のポートアイランドにある小学校に転校しました。それまでに私たちは8回も引っ越し、転校を繰り返していました。虐待が発覚しそうになった時や借金問題での引っ越し。今では考えられないでしょうが、本当に小汚い格好で、散髪だってまともに行った事のない私たち。高学年になってくると家以外でもいじめを受けました。

 転校する度に、いじめから抜け出せると喜ぶのもつかの間、新たな学校でもいじめを受ける。もう心がバラバラに壊れそうになっていました。今回の転校先でも「きっといじめられる」。そう覚悟して行った小学校は、ポートピア博覧会が開催された跡地に沢山の団地やマンションが建てられた人工島にありました。私たちの他に転校生が何とその月曜日だけで百人もいたのです。次の週にも、たくさん転校生が続々やってきて、私たちはこれまでの「転校生」という特別な目で見られることもなく、すぐに友だちもでき、いじめをする子なんていなかったのでとても嬉(うれ)しかったのを覚えています。

 家では変わらず虐待は続いていましたが、友だちの優しさを感じながら中学へと進学しました。この頃から兄たちは、家計のために新聞配達を始めたのでした。


しまだ・たえこ
1972年 神戸市出身。幼少期に継母と実父からの壮絶な虐待により何度も命を落としかけた。現在は関西約130園の学校・幼稚園・保育園のDVD制作会社を経営。本当の意味での「児童虐待の防止」にむけて自叙伝「e love smile〜いい愛の笑顔を〜」を執筆するとともに、「虐待」だけでなく「愛」や「命」をテーマに講演活動を積極的に行っている。また高校生の長女を筆頭に発達障がいの長男を含む3人の子の母でもある。